活動レポート
第29回有識者会議 基調報告:山折哲雄さん(座長、国際日本文化研究センター名誉教授)
- 2012年7月18日
- 有識者会議
「こころを育む総合フォーラム」の第29回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が7月18日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。
この日は前回(5月16日)に引き続き、座長の山折哲雄・国際日本文化研究センター名誉教授が「日本人の心」をめぐる問題と、これから取り組むべき活動の方向について報告を行い、出席したメンバー全員が真剣で深い討議を行った。
山折座長の報告要旨は次の通り。
世界の「辺境文明」と位置づけられてきた日本には、土着の価値観と外から来る価値観とを絶えず「二重構造化」してきた歴史があると思う。明治以前は「和魂漢才」、以後は「和魂洋才」と呼ばれるが、二重構造化の伝統は近代の前も後も連続していた。日本列島で培われてきた「生き抜くための工夫」だが、それが敗戦以降はとても希薄になった。 二重構造化の実例はたくさんあるが、最も象徴的なのは「天皇」と土着の政治思想・経済思想との二重構造だろう。戦後は「天皇制」と「民主主義」という二重構造が「戦後民主主義」として出発する。当初は矛盾・対立していた二つのものが、半世紀を経ていわば調和の関係に移行してきているのが現状だと思う。 次に、二重構造化の実例として明治以降の起業家精神というものを考えてみたい。例えば日本に資本主義を導入した最大の功労者、渋沢栄一が常に言っていたのが「論語・そろばん主義」だ。そろばんとは資本主義のことだが、論語は儒教を指している。それから、石油産業の創出者といってもいいような出光佐三は「仏教資本主義」ということを常に言っていた。彼は江戸期の臨済宗の坊さんに心酔していた人で、仏教資本主義に関する膨大な著作を出版している。そして、松下幸之助。彼は伊勢神道……神々に対する信仰というものを企業精神のバックに据えていた。 明治以降の日本の起業家、資本主義の精神で企業を興した人々は、この土着の思想、あるいはアジア的な思想というものを背景に仕事を進めた。外からやって来る、いわば西洋型の資本主義をそのままの形で受け入れることはしなかった。それが成功の基になったのではないかと思うが、戦後の企業は彼らの実践した二重化の努力、試みを継承しているかどうか。グローバリゼーションの大波を受けて、もう二重構造化の堡塁(ほうるい)を守れなくなっているのではないか。千年以上も続いた二重構造化の伝統が、昭和20年以降は崩れ始めたのでは……あるいは、そうではなく別な形で生き残っているのかもしれない。次代への創造的な継承ということを考える場合、この辺はきめ細かく検証する必要がある。 各国が参加する国際会議に出席すると、その土俵に置かれている尺度は、常にヨーロッパから差し出されている普遍主義だけだ。本当は複数の尺度があるということを我々は言わなければならないと思うのだが、その実現にまず50年はかかるだろう。50年も100年もかかる二重構造化の理解のために、何をどうすべきか。これは難題だが、私は最近、夏目漱石の「知・情・意」について深く考えるようになった。 漱石は、西洋の先進文明を受け入れなければならない日本人として悩み抜いた人物だったと私は思うが、知・情・意が三つとも重要と認識したうえで、彼が最も大切だと感じていたものは「情」だったはずだ。「義理と人情」という言葉を使ってもいいが、その伝統的な価値観を再評価すべき時がようやく来ているのかなという気がする。 私は20年前に還暦を迎えたころから、物事を判断したり他人様を批評したりする場合に「正邪」「善悪」という基準は捨てようと思うようになった。善と悪、正義・不正義という基準は全く相対的なもので、しばしば判断を誤らせる。では、それに代わる基準は何かと考えた時、自然に浮かんできた言葉が「義理人情」だった。自分自身を振り返って、義理と人情に基づいて行動している限りは大体、間違ったことがない。しかし正邪・善悪に基づいて判断した問題には後悔することが非常に多かった。個人体験に照らしても「義」と「情」がいかに重要な問題かということを痛感するようになった。しかし、この問題は戦後ずっと背後に押しやられていて、正面から論ずることがはばかられるような社会になってしまった。マスメディアを中心に学界から世間全体まで、日本中があらゆる分野でそんな価値観に覆われてしまった感がある。 自己とは何か、人間とは何か、日本人とは何か。こうした広い問題を統一的にとらえる考え方、価値観というものが必要なのではないかということを前回、私は申し上げた。 <智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。>――漱石の言葉から出発し考え直していくことが、これからの若い世代に何ごとかを発信する時に有効な方法なのではないだろうか。出来れば近い将来、この「こころを育む総合フォーラム」がそんな教科書(あるいは副読本)のようなものを編纂して世に問うようなことがあってもいいかもしれない。私は今、そんなことを考えている。
世界の「辺境文明」と位置づけられてきた日本には、土着の価値観と外から来る価値観とを絶えず「二重構造化」してきた歴史があると思う。明治以前は「和魂漢才」、以後は「和魂洋才」と呼ばれるが、二重構造化の伝統は近代の前も後も連続していた。日本列島で培われてきた「生き抜くための工夫」だが、それが敗戦以降はとても希薄になった。 二重構造化の実例はたくさんあるが、最も象徴的なのは「天皇」と土着の政治思想・経済思想との二重構造だろう。戦後は「天皇制」と「民主主義」という二重構造が「戦後民主主義」として出発する。当初は矛盾・対立していた二つのものが、半世紀を経ていわば調和の関係に移行してきているのが現状だと思う。 次に、二重構造化の実例として明治以降の起業家精神というものを考えてみたい。例えば日本に資本主義を導入した最大の功労者、渋沢栄一が常に言っていたのが「論語・そろばん主義」だ。そろばんとは資本主義のことだが、論語は儒教を指している。それから、石油産業の創出者といってもいいような出光佐三は「仏教資本主義」ということを常に言っていた。彼は江戸期の臨済宗の坊さんに心酔していた人で、仏教資本主義に関する膨大な著作を出版している。そして、松下幸之助。彼は伊勢神道……神々に対する信仰というものを企業精神のバックに据えていた。 明治以降の日本の起業家、資本主義の精神で企業を興した人々は、この土着の思想、あるいはアジア的な思想というものを背景に仕事を進めた。外からやって来る、いわば西洋型の資本主義をそのままの形で受け入れることはしなかった。それが成功の基になったのではないかと思うが、戦後の企業は彼らの実践した二重化の努力、試みを継承しているかどうか。グローバリゼーションの大波を受けて、もう二重構造化の堡塁(ほうるい)を守れなくなっているのではないか。千年以上も続いた二重構造化の伝統が、昭和20年以降は崩れ始めたのでは……あるいは、そうではなく別な形で生き残っているのかもしれない。次代への創造的な継承ということを考える場合、この辺はきめ細かく検証する必要がある。 各国が参加する国際会議に出席すると、その土俵に置かれている尺度は、常にヨーロッパから差し出されている普遍主義だけだ。本当は複数の尺度があるということを我々は言わなければならないと思うのだが、その実現にまず50年はかかるだろう。50年も100年もかかる二重構造化の理解のために、何をどうすべきか。これは難題だが、私は最近、夏目漱石の「知・情・意」について深く考えるようになった。 漱石は、西洋の先進文明を受け入れなければならない日本人として悩み抜いた人物だったと私は思うが、知・情・意が三つとも重要と認識したうえで、彼が最も大切だと感じていたものは「情」だったはずだ。「義理と人情」という言葉を使ってもいいが、その伝統的な価値観を再評価すべき時がようやく来ているのかなという気がする。 私は20年前に還暦を迎えたころから、物事を判断したり他人様を批評したりする場合に「正邪」「善悪」という基準は捨てようと思うようになった。善と悪、正義・不正義という基準は全く相対的なもので、しばしば判断を誤らせる。では、それに代わる基準は何かと考えた時、自然に浮かんできた言葉が「義理人情」だった。自分自身を振り返って、義理と人情に基づいて行動している限りは大体、間違ったことがない。しかし正邪・善悪に基づいて判断した問題には後悔することが非常に多かった。個人体験に照らしても「義」と「情」がいかに重要な問題かということを痛感するようになった。しかし、この問題は戦後ずっと背後に押しやられていて、正面から論ずることがはばかられるような社会になってしまった。マスメディアを中心に学界から世間全体まで、日本中があらゆる分野でそんな価値観に覆われてしまった感がある。 自己とは何か、人間とは何か、日本人とは何か。こうした広い問題を統一的にとらえる考え方、価値観というものが必要なのではないかということを前回、私は申し上げた。 <智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。>――漱石の言葉から出発し考え直していくことが、これからの若い世代に何ごとかを発信する時に有効な方法なのではないだろうか。出来れば近い将来、この「こころを育む総合フォーラム」がそんな教科書(あるいは副読本)のようなものを編纂して世に問うようなことがあってもいいかもしれない。私は今、そんなことを考えている。