活動レポート
第28回有識者会議 基調報告:山折哲雄さん(座長、国際日本文化研究センター名誉教授)
- 2012年5月16日
- 有識者会議
「こころを育む総合フォーラム」の第28回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が5月16日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。
今回は、今後の活動を進める上での基本的な考え方について、座長の山折哲雄・国際日本文化研究センター名誉教授が報告を行い、出席したメンバーとの間で熱心な意見が交わされた。
山折座長の報告要旨は次の通り。
今の日本では、価値観をめぐる世代間のギャップというものが非常に深いと思う。いわゆる「団塊の世代」以前と以後の間に大きな亀裂があるが、その価値観の違いは十分に解明されていないし、世代間のギャップはいまだに修復されていない。このまま行くと、団塊以前の世代が死に絶えた後、その世代が受け継いできた価値観というものはどうなるのか。否定すべき面も肯定すべき点もあるだろうが、何らかの形で創造的な継承ということがやはり必要ではないか。そういうことを私は考え続けてきた。 「こころを育む総合フォーラム」が新しい段階にジャンプするために、では我々は何をすべきか。その問題を深めるうえで大切だと思っていることを、今日は二つの点に絞って申し上げてみたい。 第1は、我々の自己認識がやはりクライシス(危機)に陥っているのではないのか、という観点。例えばリンカーンの有名な言葉「人民の、人民による、人民のための政治」の「人民」と、北朝鮮の自称「朝鮮民主主義人民共和国」の「人民」とでは明らかに違うはずだが、その辺をどう我々は整理してきただろうか。リンカーンの「people」は一貫して「人民」と訳されているが、「国民」「大衆」「市民」「民衆」とはどう違うのか。 就任前後のオバマ大統領の演説にはリンカーンの言葉がしきりに出てきたが、日本のメディアではさまざまに訳された。また、イギリスの皇太子妃ダイアナさんが事故死した時、当時のブレア首相は「people’s princess」という言葉を使ったが、この時もメディアの日本語訳はてんでんばらばらだった。我々日本人は一体、自分たちをどういうふうに認識しているのか。自己自身に対する認識が四分五裂状態だ。これは非常に大きなクライシスではないか。日本人の「people」の概念は、よく分からない状況にある。 第2には、日本列島に形成された「人間観」に着目する必要があると思う。西欧近代社会の人間観の基軸は「そもそも疑わしき(疑うべき)存在」だということだ。疑う精神から近代科学が生まれたと言える。しかし疑い合ってばかりでは共同体が作れないし、社会も民族も国家も形成できないので、西欧では二つの条件を歴史的に作りだしてきたと思う。一つが「超越神」信仰で、近代になって「神」が否定されると超越的な価値を代行する観念が「理性」「正義」「公平」などの普遍的な原理に変わる。二つめの条件は「契約」の精神で、さまざまな契約を取り決めることによってばらばらになりがちな個々人をルールの上につなぎとめる、そういう倫理的な制約となった。この二つの条件によって、人間はそもそも疑うべき存在であるという人間観が根底で支えられたと思う。 それに比して、日本列島に長い時間をかけて形成された人間観の根底にあるのは「人間は信じるべき(信じなければならない)存在である」という考えだ。人間観の相違は国づくりの上でもいろいろな所に表れたが、しかし現実には、人間は毎日のように人を裏切る存在でもある。それを同時に共存させるためには、その矛盾を受動的に受け入れるある種のあきらめ、「諦念」という感情、思想というものをもう一つ用意しなければならなかった。その具体的な表現が、例えば「無私」。私を無にする。これは恐らくヨーロッパ人から見ると、ある種のニヒリズムと映るだろうが、日本人にとっては自己否定的に自己、世界、人間を見なければ、先の矛盾する命題を乗り越えることができなかった。その諦念というものをいかに美的に高めるか、評価するかというところに人生の究極の目標を置く、そういう志向性が出てくる。私は日本人の倫理、宗教の根底にこの無の倫理、無の宗教という側面があると思う。日本人の価値観にとって「無」とは何か、東洋的「無」とは何かを欧米人に知ってもらおうとする努力を、今の日本人はほとんどやっていないのではないか。 その人間観に基づく価値観を、団塊以降の世代に創造的な形で継承していってもらうには何が必要か。三つの入り口があると私は考える。まず「自己とは何か」、それから「人間とは何か」、そして「日本人とは何か」。本来は一体のものである三つの問いをどのような形で螺旋形の思索の道として考え直していくか、これがやはり根本的に問題になるのではないのかと考えている。その出発をどこに置くかは難しいところだが、年代に応じて、年に応じて、地域に応じて、さまざまな取り上げ方があろうかと思う。そうすると、この三つの問いは一体のものではあるけれども、三つのパターン、モデルをつくることができるかもしれない。そんなことをあれこれ考えながら、今日に及んでいるところだ。
今の日本では、価値観をめぐる世代間のギャップというものが非常に深いと思う。いわゆる「団塊の世代」以前と以後の間に大きな亀裂があるが、その価値観の違いは十分に解明されていないし、世代間のギャップはいまだに修復されていない。このまま行くと、団塊以前の世代が死に絶えた後、その世代が受け継いできた価値観というものはどうなるのか。否定すべき面も肯定すべき点もあるだろうが、何らかの形で創造的な継承ということがやはり必要ではないか。そういうことを私は考え続けてきた。 「こころを育む総合フォーラム」が新しい段階にジャンプするために、では我々は何をすべきか。その問題を深めるうえで大切だと思っていることを、今日は二つの点に絞って申し上げてみたい。 第1は、我々の自己認識がやはりクライシス(危機)に陥っているのではないのか、という観点。例えばリンカーンの有名な言葉「人民の、人民による、人民のための政治」の「人民」と、北朝鮮の自称「朝鮮民主主義人民共和国」の「人民」とでは明らかに違うはずだが、その辺をどう我々は整理してきただろうか。リンカーンの「people」は一貫して「人民」と訳されているが、「国民」「大衆」「市民」「民衆」とはどう違うのか。 就任前後のオバマ大統領の演説にはリンカーンの言葉がしきりに出てきたが、日本のメディアではさまざまに訳された。また、イギリスの皇太子妃ダイアナさんが事故死した時、当時のブレア首相は「people’s princess」という言葉を使ったが、この時もメディアの日本語訳はてんでんばらばらだった。我々日本人は一体、自分たちをどういうふうに認識しているのか。自己自身に対する認識が四分五裂状態だ。これは非常に大きなクライシスではないか。日本人の「people」の概念は、よく分からない状況にある。 第2には、日本列島に形成された「人間観」に着目する必要があると思う。西欧近代社会の人間観の基軸は「そもそも疑わしき(疑うべき)存在」だということだ。疑う精神から近代科学が生まれたと言える。しかし疑い合ってばかりでは共同体が作れないし、社会も民族も国家も形成できないので、西欧では二つの条件を歴史的に作りだしてきたと思う。一つが「超越神」信仰で、近代になって「神」が否定されると超越的な価値を代行する観念が「理性」「正義」「公平」などの普遍的な原理に変わる。二つめの条件は「契約」の精神で、さまざまな契約を取り決めることによってばらばらになりがちな個々人をルールの上につなぎとめる、そういう倫理的な制約となった。この二つの条件によって、人間はそもそも疑うべき存在であるという人間観が根底で支えられたと思う。 それに比して、日本列島に長い時間をかけて形成された人間観の根底にあるのは「人間は信じるべき(信じなければならない)存在である」という考えだ。人間観の相違は国づくりの上でもいろいろな所に表れたが、しかし現実には、人間は毎日のように人を裏切る存在でもある。それを同時に共存させるためには、その矛盾を受動的に受け入れるある種のあきらめ、「諦念」という感情、思想というものをもう一つ用意しなければならなかった。その具体的な表現が、例えば「無私」。私を無にする。これは恐らくヨーロッパ人から見ると、ある種のニヒリズムと映るだろうが、日本人にとっては自己否定的に自己、世界、人間を見なければ、先の矛盾する命題を乗り越えることができなかった。その諦念というものをいかに美的に高めるか、評価するかというところに人生の究極の目標を置く、そういう志向性が出てくる。私は日本人の倫理、宗教の根底にこの無の倫理、無の宗教という側面があると思う。日本人の価値観にとって「無」とは何か、東洋的「無」とは何かを欧米人に知ってもらおうとする努力を、今の日本人はほとんどやっていないのではないか。 その人間観に基づく価値観を、団塊以降の世代に創造的な形で継承していってもらうには何が必要か。三つの入り口があると私は考える。まず「自己とは何か」、それから「人間とは何か」、そして「日本人とは何か」。本来は一体のものである三つの問いをどのような形で螺旋形の思索の道として考え直していくか、これがやはり根本的に問題になるのではないのかと考えている。その出発をどこに置くかは難しいところだが、年代に応じて、年に応じて、地域に応じて、さまざまな取り上げ方があろうかと思う。そうすると、この三つの問いは一体のものではあるけれども、三つのパターン、モデルをつくることができるかもしれない。そんなことをあれこれ考えながら、今日に及んでいるところだ。