山折先生による
対談のポイント解説、第2回は上田紀行先生との対談回顧録です。
<対談の内容は下記からお読みいただけます>
第2回対談:上田紀行先生 (連載)
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上田紀行さんとの対談を終えて 山折哲雄座長に聞く
宗教学者・上田紀行東京工業大学教授との対談を、山折座長に振り返ってもらいました。
まず上田さんには、教養を身に付けるために必要な3つの問い、という問題を出させていただきました。「人間とは何か?」「日本人とは何か?」そして「自分とは何か?」の3つの問いです。
この3つの問いを、絶えず螺旋状に繰り返し問うていく必要があるのではないかということであります。自分を見つめ、日本を凝視し、世界を展望する。そのようにわれわれの認識が螺旋状に深まっていくプロセスの中で、教養が単なる知識の集積に終わらず、単なる人格の陶冶に終わらずに、しだいに鍛えられていくのではないかということです。
問題は、この3つの問いをどの地点から始めるかです。小学校の段階、中学校、高校の段階でそれぞれ始めるところは違うかもしれません。それをやるには戦略的でなければだめだと思います。上田さんとの対談では、つぎのようなことが大きな話題になりました。
まず、一番普遍的な「人間とは何か」から始めると、これはまさに哲学の根本問題になります。「日本人とは何か」、これは歴史の中で考えることが不可欠です。そして「自分とは何か」ですが、これは心理学や社会学その他いろいろな分野を総合して追究していかなければならない。一番難しいのがこの「自分とは何か」だろうと話し合いました。
これまでの高等教育、大学教育では、最も普遍的な「人間とは何か」から始めて、そこで終っている。そこから踏み出して、「日本人とは何か」に行く回路があまりみられない、むしろその道は閉ざされてきたような気がします。「日本人とは何か」を問うことは、ナショナリスティックな人間を養成することにつながるのではないかとか、戦前のいまわしい記憶に結びつくと考えて、そのような問い自体を排除してきたようなところがありました。しかしこれからは「人間とは何か」を問うところから、「日本人とは何か」を問うという形で知のあり方をヴァージョンアップしていく必要があります。そのような橋をかけるための教育、そしてそのための技術や戦略がこれからはとくに必要になるということがあります。
また、われわれにとって最も重要な宗教言語は「心」だったのではないかという話をしました。上田さんもそのことに賛成してくれたのでありますが、千年の歴史の中で「心」という独特の言葉を生み出し、これを多元的に使いこなしてきたのは、日本ぐらいだと思うようになりました。外国には、この言葉に対応するマインド、スピリット、ソウルなどいろいろあります。フランス語のクールやアーム、ドイツ語のガイストなどもそうですが、どれもこの「心(こころ)」の内容にはそのままでは合致しない。全部あわせると合うかというと、合わせ方をどうするのか、と混乱し錯綜するだけです。日本の文学や宗教を研究するために日本にやってくる外国人たちも「心はなかなかヨーロッパ語にならない」と言います。対談でも出ましたように、そうなると、「ココロイズム」とするほかはない。そのようなタイトルで論文を書く研究者もあらわれてきました。
「心」の重要性と難しさを知っていたのが、夏目漱石だったのではないでしょうか。なぜ夏目漱石が「心」というキーワードを使って小説を書いたか。日本の近代文学の専門家たちで、これがきわめて重要な宗教的言語であるということに気がついた文学者はほとんどいませんでした。
あるフランス哲学の研究者が「日本の心に近い領域のことを研究した人間がフランスに一人だけいる。パスカルだ」と教えてくれました。パスカルのパンセに、クールという言葉がでてきます。それは同じではありませんが、かなり日本語の「心」に近い使い方をしています。しかしパスカルの場合、クールよりアームの方ではないかという専門家もいます。もちろん、心は仏教に発している言葉でもありますから、探せば、インド、東南アジア、中国に類似する概念がでてくるでしょう。
そのような意味においても「心」とは何か、がわれわれの共通の課題でした。しかし本音をいうと、これから多くの人がやらなければならない研究課題ではないか。道徳教育ということが言われるようになりましたが、そこまでいわなくても「心とは何か」、「心の本質を問う」でいいんです。小学校からそういう教科を作ればいい。「心」について先生方それぞれが考えたことを実践的に教えることからはじめればいい。道徳教育で型にはめようとしていますが、それでは役に立たないでしょうし、ここのフォーラムでとりあげるべきことではないですね。まずはそれこそ初心に帰って「心とは何か」を歴史に学び、世界に学びながら考えていけばいいということであります。
冒頭の3つの問いを突き詰めていくと、結局はこの心という問題に行きつきます。これは私の勝手な定義でありますが、「心は変化する」、「心は成熟する」。動物的な心もあれば、神や仏のような心まで、いろいろな段階の心があり、しかもそれは変化し、成熟していく。だからこそ、教育が必要だということになります。
この対談で非常に印象的だったのは、上田さんがジャヤワルダナ、スリランカ大統領の来日にふれていわれたことです。大統領は「日本の宗教家たちが重要視している問題は何か」と質問したというんですね。とっさのことですぐには答えられなかった。間髪を入れず、答えた宗教者がいなかった、というんですね。
そのとき、大統領の方から鈴木大拙の話がでたというんです。彼が世界で一番よく知られている日本人の一人だということがそれでわかるんですが、そういう認識がわが国の宗教界ではあなりない。日本国内では学界でも宗教界でも、西田幾多郎と鈴木大拙を比べたら、評価が高いのは圧倒的に西田幾多郎の方でしょう。日本の知的世界で評価されるのは、西洋の最良の哲学や思想をどれだけ上手に日本に紹介したか、その人や思想をどれだけうまく日本語で表現したかということであって、その先への視点がきわめて稀薄です。そういう知識人が研究者として尊重されてきた。自然科学の方はもう少し先に行っていて、もっと普遍的な世界で勝負をし、新しい発見にむかって競ってきました。自然科学以外の人文科学の分野で日本人がどれほど独自の創造性を発揮してきたか、という問題があるわけです。
上田さんの戦略では、これからの教育の重要な課題の一つとして、「鈴木大拙」を10人作ることを掲げています。この発想がじつに面白い。そういう人間を集中的に作ってみたらどうかというのは、わくわくするような話であり計画ですね。単にエリート、リーダーを作るというだけではなく、そのように特化された戦略で具体的な人間像を思い描いて、それを実現するためのプログラムをつくっていくということです。そういう一つのモデルになる人間の一人が鈴木大拙であるというわけです。「鈴木大拙を10人作る」プロジェクトが実現したらすごいことです。