山折座長と対談していただく5人目の有識者には、元読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄氏を迎えて、日本の教養とジャーナリズムについて語ります。今回は第3回です。
※対談(その1):
日本のジャーナリズムには教養が足りない
※対談(その2):
西山記者はジャーナリストの鑑と言えるか
刑務所の塀の上を歩くジャーナリストであれ
滝鼻:ジャーナリストと孤独の問題をちょっとしゃべっていいでしょうか?
山折:どうぞ。
滝鼻:私は組織の中の新聞記者として50年間過ごしてきました。もちろんジャーナリストの中には、フリーランスもいますが、新聞記者の世界は、流動性の低い業界です。読売新聞に入るとだいたい最後まで読売、朝日新聞に入ると最後まで朝日に勤めます。出版社では、会社間で横に動く人もたまにいますが、新聞社ではまれです。人事面で言うと非常に保守です。頑迷と言ったほうがいいかもしれません。
会社の中では、もちろん組織ですから、上司からは命令、指導を受けますし、部下に対しては指導や命令を行います。しかし、新聞記者を中心に考えると、やはり一人ひとりが自覚的に行動すべき職業だと思います。そのためにも、新聞記者やジャーナリストには孤独に耐える力が求められます。なぜなら、最後はすべて自分で決断しないといけないからです。
ジャーナリストにとっての決断とは、ひとつには、今書こうとしていること、報道しようとしていることが真実か虚偽かの判断です。うそか真を判断するのは、時には上司の指摘があるとしても、最終的には新聞記者個人が決めることです。それは新人には難しい。だからこそ、経験や体験を積み重ねて、自分で決める力をつけないといけない。
もうひとつは、今自分が書こうとしていることにニュース価値があるかどうかの決断です。前々回に、山折さんが指摘されましたが、マンデラ氏が亡くなったときに、彼の非暴力思想をアメリカのキング牧師やガンジーとつなげるような価値づけをした調査報道ができるかどうか。こうした報道は、いかにインターネットが進化しても、人間にしかできません。これはやはり記者個人の決断の問題です。覚悟を持って決断して、そこにニュースの価値を付加できるかどうか、です。
さらにもうひとつの決断は、取材方法に職業上、合理性があるかどうかです。これは一人ひとりの記者が考えないとダメです。取材方法について、私は部下によく「塀の上を歩きなさい」と言っています。塀の上の塀というのは刑務所の塀のことです。「刑務所の塀の上を歩きなさい。しかし、なるべく内側に落ちないようにしなさい。危ないと思ったら外に落ちなさい。しかし、塀の外ばかり歩いていたら、いいネタは拾えないよ」と言っています。
塀の上を慎重にかつ大胆に歩いて、内側をチラチラ見ながら何かのニュースを見つけるという行為は、他人の指示ではできません。自分が覚悟を持って、その細い平行棒みたいな塀の柱の上を歩かざるをえない。これはやはり孤独なのです。
法律は絶対に守るべきか
滝鼻卓雄(たきはな・たくお)
1939年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、法務室長、社会部長、総務局長などを経て、2004年1月に読売新聞東京本社代表取締役社長兼編集主幹に就任。同年8月より、読売巨人軍オーナーを兼任。東京本社会長、相談役を歴任。著書に『新しい法律記事の読み方』(ぎょうせい・共著)、『新・法と新聞』(日本新聞協会・共著)がある。
滝鼻:もうひとつは、山折さんとは意見が分かれるかもしれませんが、取材対象者の基本的人権についてです。よく、取材される側の基本的人権は絶対守らないといけない、と言われますよね。たとえば肖像権にしても個人のプライバシーにしても、それからニュースソースは絶対守らないといけないと言われます。
しかし私は、必ずしもそう限らないと思っています。大事なのは、書くことのメリットと、書かないことのデメリットをはかりにかけることです。書いたほうが、一般大衆、読者、テレビの視聴者などの利益が大きいのであれば、少々おきてを破ったり、形式的に法律を犯したりしても許されるのではないか、というのが私の考え方です。
私自身、裁判所担当のグループキャップをやっていた1980年代に、こういう経験をしました。
当時、横須賀に原子力空母(第七艦隊)がしばしば寄港し、核疑惑もありました。地元の横須賀市の市長らが先頭に立って反対運動を続けていました。あるとき、米軍が市長や市会議員らの有力者を艦内に招いて見学会を開きました。その見学会のときに、浦賀の東京湾の外に船を動かして実弾発射を見せました。機関銃をちょっと発射するぐらいですが、市の幹部も不注意にも誘いにのって発射訓練に参加したのです。その様子を写真に撮っていた男性がいて、「実は市の幹部が実射訓練をした写真があります」と言って提供してくれました。私は寄港反対を訴えている幹部が、実写訓練に参加したのはニュースだと思ったのです。
山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数。
これは当事の横浜支局長がニュース価値の当否について、私に尋ねてきたことです。
その後、写真提供者が「ネガを返してください。あれはなかったことにしてください」と電話してきました。おそらく、圧力がかかったのでしょう。横浜の記者が「もう原稿を書いて写真も現像済みだから返せない」と言ったら、その人は大慌てですよ。「写真の権利は私にあるのだから、私の著作権を侵すことになるし、市幹部の肖像権も犯すことになる」と主張してきました。
そこで、私が非常に信用しているある弁護士に電話で相談しました。そしたら、「滝鼻くん、君が書くと言うなら書いても大丈夫だよ。もし裁判になったら、著作権違反で君は負けると思う。でも罰金はせいぜい50万だよ。書いて50万円払うのと、書かないで後悔するのと、君はどっちをとるんだ」と言われたのです。これには、目からうろこでしたね。やっぱりジャーナリスト、報道というのはこういうものだと思って、ゴーサインを出しました。というか、デスクに何も相談しないまま、独りで行動しました。結局、記事が出ても、その写真提供者は何も言ってきませんでした。
それ以来、私は記事を書くときは、書かないことのデメリットと、書くことのメリットをつねに比較するようになりました。ある人の権利を多少侵害したとしても、報道することの価値のほうが高いときには書く。それは、自分の経験や体験からくる覚悟の問題です。
孤独に耐えられる記者かどうか
滝鼻:ここで、特定秘密保護法の話をすると、最近、私はある後輩の記者に「特定保護法は成立したけれども、こんな法律クソ食らえだ」と言いました。少々下品な言い方ですが……。
確かに、守るべき秘密、事項はありますし、それは新聞記者といえども守ると思います。新聞記者は知っていても書かない場合もありますから。たとえば私が取材をして、防衛、外交、テロリズムの防止に関する秘密を知ったとします。それを国民の共同利益のために秘密にしておいたほうがいいと思ったら、私は書かないはずです。逆に、これは書いたほうが国民共通の利益になるのであれば書きます。ただその場合、形式的には、特定秘密保護法を犯すことになるので、おそらく起訴されるでしょう。しかし、記者が書くべきことを書いた場合、組織は守ってくれるはずです。
数年前、私が読売新聞の社長だった時代に、新聞大会のシンポジウムで秘密保護について話し合いました。その際、「もし読売の記者が書くべきことを書いて、それが法律に触れて起訴されて、有罪判決を受けたとしても、その記者を懲戒免職にはしません。出所するまで待っています」と話したのです。そうしたら、そこに集まった全国の新聞社のトップから異論は出ませんでした。ですから、せっかくこんな法律を作った安倍首相には申し訳ないですが、特定秘密保護法があろうとなかろうと、孤独に耐えられる記者には、あまり関係がないと思うのです。
私は、新聞記者やジャーナリストは孤独に耐える力を持つべきだと思っています。孤独の力はなかなか理解されないかもしれないですが、もうちょっとわかりやすい言葉で言えば、競争力や精神力です。そして、周囲の目を気にしない力。周囲の目を克服することが、孤独に耐える力につながると思います。
日本の社会には、触れてはいけないタブーがあります。被差別部落の問題、在日朝鮮人の問題、皇室の問題もそうかもしれません。自分で自分のタブーを作ってしまうところがあります。こうしたテーマは、組織として考えると、「お前、危ないからやめておけよ」ということになりがちです。しかし、そうではなくて、自分の覚悟を持って、孤独でも戦うということが、職業ジャーナリストとして必要な要素ではないでしょうか。
なぜヤクザ性を重んじるのか
山折:その話には共感します。私は、20年ぐらい前に還暦を迎えた頃、「人間を評価する基準とはなんだろうか、自分の場合は何を基準にすべきだろうか」を、友人と討論して考えたことがあります。私が最終的に行き着いた基準は、3つです。
1番目は、知性です。知性は人間の土台ですから。2番目は含羞です。この言葉はもう死語になりましたかな?
滝鼻:まだ生きていますよ。
山折:3番目が、ヤクザ性。わたしはこれをあえて出したんですよ。何事かをする人間には、知性がなくてはならないですし、含羞の心がどうしても必要になります。慎み深さや思いやりといった要素が、知性を生かすためにも極めて重要です。
しかし同時に、冒険心もいります。ただ、私はあえて、冒険とは言わず、ヤクザ性と言っています。このヤクザ性の本質とは、場合によっては、法を犯してでも常識や世間を突き上げる力です。それには覚悟や決断が必要となるので、ヤクザ性と言っています。
そのとき以来、わたしが人間を評価する要素はこの3つで変わりありません。問題は、その3つの価値基準をどう配分するかです。たとえば、100点満点にした場合、知性を50にして、含羞を20、ヤクザ性は30にするなどいろんなバラエティがありえます。
当初私は、知性が50ぐらいで、含羞とヤクザ性が20、30ぐらいだと感じていました。ただ、年を取るにしたがって、「知性は30、場合によっては20でもいい。大事なのは含羞。これを中心にしてヤクザ性を最大限プラスしよう」という考えになってきました。今は、知性30、含羞40、ヤクザ性30ぐらいのバランスです。
いざというときに、俺は法を犯すかもしれない。人間という存在は、場合によっては、法を犯すこともありうる。それを自分の行動に対しても、受け入れよう。そう考えるようになりました。これは、滝鼻さんの先ほどのお話とちょっと触れ合うかもしれません。
滝鼻:そうですね。
山折:もうひとつは、人間に対してであれ、事件に対してであれ、社会的なさまざまな思想を批評する場合であれ、正邪善悪の基準で評価することをやめようと。正邪善悪でものを考えたり結論を出したり、議論したりした場合に、ずいぶん俺は間違ってきたなと。正邪というのは、時代や人によって変わります。
滝鼻:そのとおりです。基準は動きますよね。
山折:私の過去20、30年を振り返ると、正邪善悪のつもりで判断して行動してきたことの半分以上が誤っています。そういう反省の上に立って、ならばさまざまな問題を評価するときに、何を基準にしたらいいのか。私が最後にたどり着いた結論は、義理と人情です。私の場合、義理と人情で事を判断し、評価したときには、ほとんど誤ったことはありません。
義理人情という言葉自体は、あまりにも近代的な観念や、慣習によって汚染されています。ですから言葉を言い換えて、義と情、と言っています。今の私にとっては、義と情こそが、すべてのことを判断する最大の基準です。
滝鼻:どんなことがあってもですね。
山折:それはお縄をちょうだいしても、下獄してもです。そういうことがないことを祈りますけれども、そのなったら仕方がない。だからその点で、先ほど滝鼻さんが言われたことと、まったく同じ方向を向いていると思った次第です。
滝鼻:義と情は、時に法の支配と触れるところがあります。人はよく、「悪法も法なり」と言いますが、悪法はやっぱり悪法です。
たとえば最近、最高裁の第3小法廷が、性同一性障害のため女性から男性に性別を変更した妻と夫の間に、生殖治療で生まれた子供を親子とみなす判断を出しました。読売新聞の社説は、この判断に対し疑問を投げかけていましたが、それ以外の新聞の多くは、立法を急ぐべきだという立場でした。最高裁が今回の決定を出さなければ、この問題はずっと解決せず続いていたかもしれません。
やはり、悪法は変えていかないといけません。ジャーナリズムの中でも、法に触れそうな報道や取材は過去もありましたし、これからも有りえます。それが私の言う「塀の上を歩かないと、いいネタは見つからない」ということです。それに踏み切るときに、山折さんはヤクザ性という言葉を使われましたが、ある覚悟をもって内側に飛び降りることが必要です。それをできるのが、職業としての記者、あるいはジャーナリストだと私は思っています。
(撮影:梅谷秀司)
※ 続きは次週掲載します