活動レポート
山折哲雄 × 滝鼻卓雄 第4回 ジャーナリズムが追うべき“正義”とは何か
- 2014年7月30日
- 有識者対談
山折座長と対談していただく5人目の有識者には、元読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄氏を迎えて、日本の教養とジャーナリズムについて語ります。今回は第4回(最終回)です。 ※対談(その1): 日本のジャーナリズムには教養が足りない ※対談(その2): 西山記者はジャーナリストの鑑と言えるか ※対談(その3): ジャーナリストには孤独に耐える力が必要だ
正義とは何か
滝鼻:私はジャーナリズムの目的は何かというと、正義の実現にあると思っています。ジャーナリストには、「何が正義か」についての柱となる考えがないといけません。正義という基準を持っていないと、ニュースの価値を決めるときにも困ります。法律は必ずしも、正義の実現にはつながりません。正義の実現と乖離した法律もいくつもあります。 たとえば、尊属殺(祖父母・両親など血族を殺害すること)です。かつて尊属殺には重罰規定があり、普通の殺人より罪が重く、死刑か無期懲役のいずれかでした。この重罰規定が見直されるきっかけとなったのは、父親に強姦された娘が、思い余って父を刺し殺すという事件です。こうした事件が3県で起きました。 子どもを殺した場合は普通殺人と同じように裁かれるのに、親殺しだけ重罰というのはおかしいという議論は戦争直後からありましたが、重罰規定を支持する声が大きかったのでずっと継続していました。しかし、昭和40年代に入って、裁判官の多数が「法の下の平等に反するこの規定はおかしい」と考えるようになり、刑法上の尊属殺規定を削除しようという判決が出た。それが事実上初めての違憲立法審査権です。 ここでジャーナリストに問われるのは、最高裁がこうした判断を下す前に、つまり、重罰規定支持派が多数派のときに、「重罰規定はおかしい」と疑義を呈す記事を書けたかどうかです。その軸になるのが、「正義とは何だろう」という自分の中の考えです。私がいう正義とは、為政者が考える利己的、自己中心的な正義ではなくて、公正さというか、ジャスティスの考え方に近いものです。 日本は最近、裁判員制度ができましたが、アメリカのような完全な陪審制ではありません。日本人の考え方として、正義というのは裁判官を含む御上が実現してくれるものだという意識が強くあります。サラリーマンであろうと、魚屋さんであろうと、八百屋だろうと、この国を構成する国民一般には、正義の判断を任せられないという考え方が、日本には根強く存在するように思います。 陪審制度を導入するときに、裁判所は、陪審制度という言葉を使わずに、「市民の司法参加」という言い方をしましたが、それは日本ではなかなか難しい。なぜなら、日本の場合、正義は裁判官、検察官、公務員を含めた御上が実現してくれるものであり、市民が正義の実現をしようとすると大混乱になるからです。欧米の正義とは神である
山折:結論を先に言いますと、欧米における正義とは、神の代替語ではないかと私は考えています。近代になって神が否定されたので、その代替主として正義、フェアネス、公正、理性といった言葉が持ち出されるようになったわけです。ですから、彼らが正義というときには神の視点が、無意識のうちに彼らのDNAに流れています。それに対して、日本人はそうした一神教的な超越的価値を持たない民族であり、そういう文化を育ててきたわけですから、世間の力で、国民で、みんなで、という発想になります。 みんなで考えると、正義は相対的なものにならざるをえません。ですから、前回話した正邪善悪で判断しない私の考え方はまさにそこにつながっているわけです。だから正義とは何か、ということになると苦しむのでしょう。 滝鼻:苦しみますね。 山折:西洋社会はそこが違います。たとえば、あるヨーロッパの国で人肉食事件が起きた際に裁判が行われましたが、最終的に裁判官は「神様もこれをお許しになるだろう」と言って許したケースがいくらもありますよ。危機の状況で仲間の肉を食べた罪を裁くときに、神というカードを入れるわけです。それが西洋における正義ではないでしょうか。 滝鼻:なるほど。ただ日本ではそういうことは出てこない。被害者感情と刑罰
滝鼻:今、裁判官は、司法研修所や先輩裁判官から、刑罰の意味として3つのことを学びます。ひとつ目は、犯罪の予防。二度とこういう犯罪を起こさせないための予防効果です。予防は、威嚇的な効果や抑止的な効果を狙ったものです。2つ目は教育。要するに被告人が刑務所から出たあとに、立ち直るかどうか。二度と犯罪を起こさない人間にするための間接的効果です。3つ目が、いちばんあいまいで非常に難しいところになりますが、被害者感情の緩和です。被害者とは、犯罪で被害を受けた人や遺族です。この被害者感情が刑罰によってどれだけ緩和されるだろうかという観点から量刑を行います。 この3つのポイントがあるのですが、今は「被害者感情の緩和」、つまりは、被害者が納得してくれるかどうかに重点を置きすぎてしまっているところがあります。一部の学者は、犯罪の被害者を第三の当事者として位置づけるべきだと主張していますが、それを認めると、裁判員がみな情に流れるおそれがあります。 私としては、被害者感情の問題は、裁判官が苦悩すべき話であって、被害者の声を裁判員が直接聞いてはいけないという考えです。そうでないと、被害者感情を重視する判決に流れてしまう。それよりも、予防的効果を重視すべきではないかと思います。人間的な判決には、教養が問われる
山折:正義というテーマで、最後に取り上げたいのが、2001年に大阪の池田小学校で起きた、宅間守による小学生殺しです。 そのときの精神鑑定をしたのが、岡江晃さんという、京都大学医学部出身の精神科医の方です。最近、岡江さんが宅間守の精神鑑定書を全部公表していたので、読んでみました。その本には、宅間の犯罪歴が記されていて、毎年のように傷害事件を起こしています。そこで、岡江さんが下した診断が、なんと「情性欠如」というものでした。 もし重度の統合失調症という鑑定をすると、死刑にできなくなる。しかし、それでは世間が納得しない。したがって、致し方なく、「情性欠如」という結論を出したという意味のことを、間接的に書かれていました。 こうした矛盾をどう乗り越えるか。これは永遠の矛盾であり、これを超えるのは、法を超える何かですね。神やドストエフスキーの世界がそこに出てくるのではないでしょうか。法を超える文学、宗教の問題としてとらえないと、こうした凶悪事件は最終的には裁くことはできません。その意味で、裁判官は法律の限界を知るべきですし、限界を知ったうえでの人間的な判決が要求されています。そのためにも、教養が問われるのではないかと私は思っています。 私が思う日本の法律や法律家の問題は、「日本には、正邪善悪を超える、神のような超越的な価値がない」ということに無自覚なことです。われわれ全体の知的な問題を考える態度と言ってもいいかもしれません。われわれ自身の教養の根本の問題です。 滝鼻:そうですね。 山折:あれほど明治以降、たとえばドストエフスキーの世界に親しみ学び、思索を深めてきたはずの日本の知的伝統が、今、揺らいでいる、ぐらついている感じがします。(撮影:梅谷秀司)