「こころを育む総合フォーラム」の第18回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が15日朝、東京・千代田区のパレスホテルで開かれた。6月25日に全国運動の展開について記者発表を行ってから最初の会合となった今回は、メンバー16人のうち11人が出席。哲学者の鷲田清一・大阪大学総長が「こころを育む/哲学的視点から」と題して基調報告を行い、質疑応答が交わされた。報告の要旨は次の通り。
こころを育むという問題について、3点に絞って話したい。
[I]自尊心をはぐくむ
自尊心(プライド)とは自分の存在を粗末にしないこと、自分がここにいる、ここにあるということを大切に思うこころのこと。このミーティングでの議論の中でも、今の子どもや10代の人たちが自分の存在に価値をうまく見いだせないということが繰り返し指摘された。自尊心を持てない、持ち得ないという時代の大きな空気、流れというものが目立ってきていると思う。
「自分探し」というのも基本的に、自分にはほかの人にない、どんな素質や能力があるだろうか、ほんとうの自分らしい素質って何だろうかと考えるわけだが、実はプライドというものは、最初は他人によって与えられると思う。つまり、特に幼いときだが、他人に自分がとことん大切にされる経験をした人というのは、「これほど大事にされるんだから、そんな自分の存在を粗末にしてはいけない」という感覚が植えつけられる。それが生涯にわたっての自己感情の礎になるのではないか、と私は考えている。
テレビの番組で40数年ぶりに自分の小学校を訪ねて驚いたのは、古い建物が黒光りして昔のまま残っていたこと。子どもが1日の大半を過ごす場所だからということで、建って100年近くたってもびくともしないつくりになっていた。子どものときはそれがわからなくても、自分が大事にされているという感情を持ち得たように思う。まずは他人にとことん大事にされる経験が、人生の出発点において絶対欠くことができないのではないかと思った。
[II]思考にもっと「ため」を
「教養」というのは、何がほんとうに大事で、何が場合によってはなくしてもいいか、これはあってはならないというように、ものごとの軽重を判断する力のことだと言える。「価値の遠近法」を身につけることが、国民生活の基本になるのではないだろうか。
例えば、人が美術館に行くのには3つの理由がある。見たいものが見られるから行く、見たこともないものに出合いたいから行く、見ておく必要があるから行く。この3つ目が実は大事だと思う。見なければならないというと窮屈な感じがするが、ものごとの軽重の判断がつき、価値の遠近法を作り上げるには大事なことだ。自分が理解できるもの、自分が関心を持っているものとは全く違う、もう一つの視点に触れる、そういう補助線を入れることで、視線の遠近法をより正確なもの、客観的なものに作り直していく、この経験が非常に大事なことなのではないか。
思考に「ため」をつくるというのは、肺活量を増やすということでもある。大事な問題ほど、すぐに答えが出ない、あるいは時には答えがないかもしれない。そういう中で、答えが出るまでグーッと息を詰めて潜水している、そういう肺活量が要るのではないだろうか。わからないものにわからないままどう向き合うか、わかることよりも、今自分がわからないことを知ること、あるいは、わからないけれどもこれは大事だと直観的に知ることができること。このことが大事だと私は思っている。
そのときに一番取ってはいけないのは、受験の解答のような方法だ。ほんとうに大事なものは、わからないままにじっくり対応できることが重要なのであって、わからない大事なものを、すでにわかっている狭い枠組みで処理してしまう、無理やり理解してしまうこと、これが一番いけない。
[III]異質なものを迎え入れるこころ
「社会に向かうこころ」「他者に向かうこころ」について話し合ってきた中で、異質なものを迎えるこころの大切さは皆さんが共有されている意見だと思うので、今日は「リベラルな感受性を」ということを一言。
リベラルという言葉を辞書で引くと、1番目に出てくるのは「気前がよい」「物惜しみしない」という意味。2番目に「寛大な、寛容な」で3番目が「豊富である、たっぷり」、4番目にやっと「自由の」「自由主義の」という意味が出てくる。リベラルというのは、拘束とか強制をされないという自分中心の自由ではなく、他人に惜しみなく何かを与えるという他者のほうへ指向性もった自由なのではないかと思った。
これはホスピタリティーの問題に非常によく通じているもので、まず他人のことを考えて、その他人=お客さんの客として自分をとらえる。客を主人の座へという思考・感受性を身につける。言い換えると、他人の前に自分を気前よく差し出すという感受性ではないかと思う。ホスピタリティーの語源はホスペスというラテン語で「客」を意味するが、ホスト、ホステスのように「あるじ」の意味に転じる。主客というものが絶えず入れ替わるという感受性をあらわす言葉ではないかと思った。