基調報告 1
「活字と教育」滝鼻 卓雄(読売新聞東京本社社長)
日本PTA全国協議会が昨年末、小学5年と中学2年の子どもたち、保護者の計約1万人を対象に行った調査によると、平日にテレビを見る時間は、小中学生ともに「1~3時間」が最多で、休日では「5時間以上」が約20%にのぼった。一方、インターネットの利用経験がある子は、すでに小学生の70%、中学生の83%に達し、約3割は「ほぼ毎日」パソコンに向かっていた。メールを1日に「60通以上」を送受信している子も少なくなかった。
テレビを毎日2時間見続けると、年間では730時間と小学校高学年の年間授業時間(708時間)を上回る。テレビの見過ぎやインターネットの使いすぎは、学力低下を助長する要因になっているとの指摘もある。
近年は「メディア・リテラシー」への関心が徐々に広まってきた。新聞や雑誌、テレビ、インターネットなどのメディアが何を伝えようとしているのかを新聞でいえば読者、テレビでいえば視聴者、インターネットではユーザーが主体的に分析し、評価し、使いこなす能力のことを言う。1980年代にカナダやイギリスで研究が始まったそうで、今日の会のテーマになった「メディア教育」という言葉も言われている。
しかし、日本ではメディアの発達のほうが急速だったので、メディアにどういう評価をくだすか、どう中身を使いこなすかという教育は遅れている。ささやかだが、新聞業界は「NIE」という活動を進めている。Newspaper In Education、教育のなかに新聞を取り込み、教育の1つの形をつくろうという活動だ。アメリカのニューヨークタイムズが1932年に始めたが、日本では89年にスタートし、今年はNIE週間が創設された。
新聞のある記事をみんなで読み、感想や意見を述べ合うという単純な作業だが、活字を読み、自分の頭で咀嚼し、自分の言葉で表現していく。場合によっては再評価する、批判する。そういうことが活動の基本になっているが、NIE会長の横浜国大の影山清四郎先生は、毎日毎日、違った教科書が教室にやってくるということも生きた教科書になると強調されている。
劇作家の山崎正和さんは、現代社会における活字は、民主政治の根幹であるとおっしゃっている。情報というのは1人で受け、自分自身で反すうして吟味しなければならない。1人で考えることこそが大切であり、それが民主主義をつくる、と。活字には、知的な情報がぎゅっと凝縮されている。それが活字の持つ強みでもある。
さらに今、全国で行われている活動に朝の読書運動がある。朝、授業の始まる前に10分間、生徒と教師が一緒に本を読む、できれば声を出して読む。4月に文科省が発表したデータによると、この運動に取り組む学校が、公立の小学校の79.7%、中学校は66%、高校は25%に増えたという。多感な時期の子どもたちが、朝10分間、本を読むという現実が今起こりつつある。
2003年12月に、経済協力開発機構(OECD)が公表した国際学習到達度調査の結果では、日本の子どもたちの「読解力」は前回2000年の調査では8位だったのが14位となり、参加国の平均とほぼ同じ結果になった。
先ほど紹介した朝の読書運動を始めたのは、千葉県の私立高校の林公さんという方が1988年に始めた運動で、林さんの話によると、子どもたちの言語能力の成長に危機感を抱いたからこそ、こういうことを始めたという。本、あるいは新聞というものは、聞く、話す、書くことができなければ、きちんと読むこともできない。当時は学校が荒れている時代で、この林先生によると、心の教育という側面が必要だということで運動を始めたという。
活字離れということがよく言われる。新聞からも、若い人たちが離れていっている現実がある。私たちは、読書によって主人公の痛みを感じ取ったり、思いやりを持ったり、怒ったり驚いたり、そういうことでみずからの精神を、あるいは心を育ててきた経験がある。現代の子どもたちも、そのような経験を積んでもらいたいと切に願っている。
基調報告 2
「美学からのアプローチ」永井 多恵子(NHK副会長)
ある調査結果を紹介したい。テレビが、子どもたちの反社会的なルール違反(潜在非行)や不安感というものに影響を与えているかどうか、放送倫理・番組機構(BPO)が4年間にわたり、首都圏の小学5年生と保護者1,500組、中学2年生と保護者350組に面接して聞いた調査だ。
結論は、テレビが顕著な原因ではないというものだった。
ただ、多少影響するかもしれない共通要因として「夜更かし」があり、友達、親子関係の悩みがあるといった要因が複合的に作用するとき、何らかの程度にテレビが影響するという結果になった。友達から無視されているとか、親から愛されていると思えないといったストレスや悩みを抱えていると、テレビの長時間視聴が関係してくるかもしれない。テレビで衝撃的な場面などを繰り返して見ると、そういう場面が心に沈殿し、問題行動へ走ることも考えられる。
テレビの見方では読解力が必要で、テレビを保護者が一緒に見て、批評的な見方を教えてあげる。この火事はクローズアップで見ているので大きく見えるが、実際はそうではないと教えてやることが必要だろう。
今の子どもたちは、人としての直接的な関係性を取り結ぶ機会と時間に昔ほど恵まれていないのではないか。自己を主張して周囲とぶつかり、傷つけ合って、矛を収める間合いを経験する機会が少なくなっている。さらに、自己肯定の気持ちを持てないということがある。幼いころから塾へ通う日々の中で、自己が確定していないうちに自分の位置が見えてしまう。自己を主張するのにも臆病になっているところがある。
自然体験も必要だ。自然という賢者から学ぶ機会がない。生と死といった避けようもない生き物の循環を感性で受けとめる機会がない。心にかかわることを育てる機会が失われている。赤ちゃんのおむつをかえたり、寝かしつけたりすることもできない。お年寄りを世話したことがない子が半数に近い。
人とのかかわりを学ぶ機会を、あらゆる場面で用意していく必要がある。親同士の友達づき合い、親戚づき合いに子どもを連れて行き、あいさつさせたりする機会を用意する。けんかをしてもとめたりせずに、子ども自身が傷を負って自己調整する機会をつくってやることが必要ではないか。
わかるということだが、胸に落ちて、つまり、心が揺さぶられて初めてわかる、体の中に入っていく。わかると、それを表現してみたくなる。学ぶというのは、呼吸で言えば息を吸うことだが、吐くことによって呼吸になる。その吐くということが表現で、文章であり、発表であり、体を使っての表現になる。だが、今は、この学ぶというシーンが身体性を失っているという気がしてならない。表現教育に心を育てる可能性があるのではないか。
身体の表現というのは、なかなか点数がつけられない。イギリスのナショナル・シアターのワークショップを見ての感想だが、彼らはいいか悪いかとは聞かない。好きか嫌いか、美しいと思うかと聞く。
こうした身体表現の場で、子どもたちは創造性を発揮する。地域の子たちと取り組んでみたら、非常に効果があった。
「眠れる森の美女」という物語で、王女様に傷をつけさせるものは何なのか、と子どもたちに問うと、ナイフ、ミシンの針、バラのとげなどの答えが出る。それをどう表現しようかと聞くと、バラのとげでは、茎を背の高い子がやり、花びらを小さい子が、とげは男の子がというふうにして、バラの花のとげを表現する。人とかかわりながら工夫を楽しめる。子どもたちの表現にはそれぞれのよさ、個性がある。表現というのは、自分のスタイルはこうだとアピールすることでもある。自己肯定のきっかけにもなる。
表現教育の延長線に、社会的マナーとしての表現が考えられないか。道徳の押しつけでなく、自分の身仕舞いとしての表現と考えてもらう。年配者がいるのにシルバーシートを占拠するのは美しくない、格好悪いことだ。表現として、いけていないという感じで何か提案できないか。先輩たちへの配慮を美しい自らの表現として行おう、という新しい形の提案ができないかと考えている。
自由討議
「大事な人間同士のかかわりを学ぶ機会が少なくなっているとの永井さんのご指摘はそのとおりだと思うが、物を考えたり行動したりする上での基礎知識を徹底的に効率的に教えるというところが今、非常に失われている。その結果、基礎を補うために塾に行くことになる。加えて、ひとりっ子とか、両親が共働きという環境があり、核家族なのでおじいさん、おばあさんがいない。
改善できるとすると、小、中学生であれば、徹底的に効率的に基礎になる知識を教え込む。それで自由な時間を少しでも多く生み出してやることが一番の基本になるのではないか。その上で、初めて、独創的に物を考えたり、遊んだりする時間が生まれるのではないか」
「メディア・リテラシーでは、むしろメディアが言いたいということを批評的に見るというところがポイントだ。大人たちは、子どもたちと一緒に見る機会を増やす。時々は『ああ言っているけれど、こうじゃないかなとママは思う』とか、批評的に見ることを教えてやる。確かに学校教育の中では、それこそ基礎・基本を徹底的にたたき込んでもらって、そのほかの時間は遊べると、ほんとうにいいなと思う」
「学校教育では数学、国語などが主要5教科とされ、絵画、音楽などは副次的な教科とされている。しかし、それこそ心の問題に関する部分は、とりわけ芸術表現にかかわる、副次的な教科と言われているところにかなりあると思う。もう少し何とかならないか、という思いはある」
「表現力はかなり低下しているのではないか。テレビのグルメ番組で、登場するタレントで表現力が比較的あると思われている人でも、『おいしかった』とか、『食感がいい』とか、決まった言葉しか出てこない。イベントで、アナウンサーが子どもたちにマイクを向ける。すると、全員が『楽しかった』という。その言葉しか出てこない。表現の方法が単一化している」
「テレビの弊害がよく言われるが、テレビのおかげで救われてきた面もある。今、子どもたちよりもっと長くテレビを見ている人たちがいる。高齢者と病院に入院されている方たちだ。昔は、子どもたちや高齢者の世話には、母親や主婦たちを中心に、家族、あるいは地域の人がかかわっていたが、家庭や地域の力が落ちている現代では、単独の人間が子どもの世話、高齢者の介護をするという非常に閉じた空間ができた。それで、世話する側が、自分の時間が欲しいということで、テレビに子守を、あるいは介護を任せてきた面がある。
だから、今よく言われるテレビの弊害というのは、私たちの家族関係、あるいは人と人との関係、世話をし合うというケアの文化が力を落とし、いびつな閉じたものになっているところに、かなりの原因があるのではないか。
テレビとのかかわりの中で危ういのは、人を受動的にしてしまうことだ。自分が考える前に、テレビから流れてくるコメンテーターの意見のほうが先に入ってきてしまう。情報に対して受動的になっていくと、人は結局、条件反射的にしか反応しなくなってしまう。心のなかに『ため』がなくなってしまう。情報を一度、自分の中に取り込み、反すうしてみるという、『ため』をつくるプロセスを省略してしまう。テレビというメディアと私たちの思考力、想像力との間にはそうした関係があるのではないか」
「全体として見れば、我々の社会はテレビを積極的に享受している。インターネットにしても、確かに弊害はあるが、とても便利なものだ。海外の出張先でも、本社にいるのと同じように仕事ができる。インターネットの操作能力が、おそらく国際競争力を決める状況になってきている。
現代の子どもたちは大変な環境の中で生きているが、その中で生きざるを得ない状況に入っているのではないだろうか。我々が取り上げている問題というのは、どのくらい大きいのか、深刻なのか。その辺をクリアにすることも、この会の討議の方向を決めるのに必要なことではないか」
「今の社会において、メディアは必要だが、現在のメディアの状況をこのままにしておいたときの問題性ははっきりしてきているのではないか。情報の伝達手段が発達し過ぎ、子どもや大人が没頭しているという問題がある。さらに、流される情報の質の問題もある。そこはきちんと考えていく必要がある」
「全体の状況をどうつかむかということは非常に難しい。ただ、読解力の低下は数字の上では明らかだ。読解力が人間形成の上でどれほど重要なのか、という問題はあるが、インターネットで得られる情報を読みこなすうえでも必要であろうし、それが低下するのは好ましいことではない。絶対的な価値ではないと思うが、必要な指標価値だろう。
話の質は変わるが、犯罪報道をとってみると、社会の極端なケース、殺人や詐欺、汚職など社会の片隅で起こった極端なケースを取り上げるわけだが、そこからどういう社会的な普遍性を学び取るかということが犯罪報道、あるいは事件報道の本質だと思う。
そこでマスコミ側が注意しなければならないのは、具体的な犯罪の手口、方法を事細かに報道することによって、同種の犯罪を広げてしまうとか、模倣犯の発生にも注意しなければならない。だから、ここまで書いていいのかどうかを常に検討しているが、結果として書き過ぎてしまったり、反対に書かなかったことで事件の本質を正確に伝えられなかったりということがある。日夜格闘していると言ったほうが正確かもしれない」
「子どもの刑法犯というか、非常に凶悪なもの、特異なものは戦後すぐに非常に高かったと記憶している。そして、1980年ごろ。刑法犯が増えたが、ほとんどが万引きで、店舗の対応が変わって対人が少なくなり、自分でバスケットに物を入れてキャッシャーに持っていく。そんなことで万引が増えた。
それから、テレビの視聴の仕方だが、若い人は全体的に『NHKスペシャル』は見ない。中身のいいものを易しく、おもしろく見せる工夫をと言っているのだが、なかなか見てもらえない。ぜひ見てくださいと学校現場と連絡をとるなどして、いかに活用するかということもここで提案できれば、世の中のためにいいかなと考えている」
「大事なのは、ここに子どもがいるということへの配慮だ。しかし、そこでどう配慮したらいいのかが十分に認識されていないのではないか。子どもと母親が一緒にテレビの前に座れる時間帯について調べなくてはいけない。一緒に座れる時間帯がないなら、それなりに考えなきゃいけない。我々の側に問題が投げかけられているのではないか。
縁側があって、ちゃぶ台があって、みんながオープンスペースで会話をしながら食事というのが日本の生活には多分一番ぴったりしていたのだろう。残念だが、それを取り戻すことはできない。住居も高層住宅になって、四十何階とかの家庭の子は、下におりてきて遊ぶということをほとんどしないという統計がある。母親と密着型になる。住居についても、小さい子がいる場合には、中層型の集合住宅で、いろいろな年齢の子どもたちと一緒に遊べる状況を与えてやるとか、子どもの存在に配慮をすることが大事なのではないか」
「新聞紙面だけでの報道やキャンペーンでは従来どおりの反応だが、同じものをホームページに掲載すると、反響が倍加してくる。その上で、そのテーマについて、シンポジウムやディスカッションをするとさらに影響が強くなる。従来型の新聞紙面だけ読んでくれ、あるいは、テレビの画面だけ見てくれということではなくて、同じ素材を多様的に使っていく。紙面だけでなく、メディアもインターネットも使う。そうすると、影響力が倍になる。もう一つステージをつくると3倍になってくる。そういう時代に差しかかっている感じがする」
「永井さんのワークショップを興味深く拝聴したが、私の大学でも、平田オリザさんという劇作家に来てもらい、対話ワークショップを演劇の手法を使ってやっている。どういうことがわかったかというと、要するに、言葉が合う、あるいは、同じものをイメージしているから近いと考えたら、コミュニケーションは成り立たないのだと。表面の、言葉のイメージの一致だけだったら絶対コミュニケーションは深まらないということを教わった。
つまり、相手がサッカーと言うときに、それがどういうものとの比較で、どういうコンテキストでそれを挙げているのかを知らないとコミュニケーションにならない」
「企業として、心を育むという運動のために何をしたらいいか。最近、始めだしたのが広告だ。民放が編成していく番組と広告との関係というものについて、企業の広告側からも極めて反省すべき点があるのではないか。売らんかなとかいった動機だけで、番組にスポットを出してしまう。それではいけないのであって、企業の良心というものに立ち返って提供していく番組について検討していくべきじゃないか。一企業としての運動では点にすぎないが、大きな一石を投じることになるのではないかなということを今考えている」
「どんな社会でも社会的ルールというものが一応存在していて、その社会的ルールなるものをできるだけ多くの方々が共有できたとき、その社会は安定していくと思う。その社会的ルールをどういうふうに学ぶかというところが実は非常に重要な問題。あるいは育むか、教えるかという事柄に帰着するような気がする。その場合、2つぐらいの方法があるのではないか。
1つは、論理的にというか、理性の力でそれを学んだり教えたりするという生き方が1つあろうかと思う。ある危機的な状況に際して、どういう行動をとったらいいのか悪いのか、その正邪善悪を判断する。そういう力をつけなきゃならないというのは1つもちろんあるのだが、心を育むといったような問題にかかわるときは、気がついたらそのように行動していたというのはまさに倫理の問題であり、心の世界だ。
考えて、こちらの方向を選んで、こういう行動をとるというのではなくて、気がついたらこういう行動をとっていた、こういう言動をとっていたというのが、社会的ルールに合致しているか、いないかの問題であって、つまり、パトスメンと言ったらいいか、体を通して身につけた社会的ルールといおうか、そういう教育の回路、育む回路というものをこれからどう開発していくのかという、結局そういう問題に帰着するのだろう。
そうすると、やっぱり乳幼児教育というのは非常に重要な問題になってくる。一方では、インターネットとかさまざまなメディアとの関係をどう調整していくか。もっと難しい問題が出てくると思う。
それを大前提として受けとめながら、気がついたらこういうふうに行動していたという社会的ルールに合致する、そういう生き方というか、心のあり方というものをどう開発するかということなのだろう」
なお、今回はゲスト報告として、文部科学省の今泉柔剛氏から、同省の「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」がまとめた報告書の概要が紹介された。