第8回有識者会議 基調講演:菅原ますみさん(お茶の水女子大助教授)、信田さよ子さん(原宿カウンセリングセンター所長)
基調講演 1
「子どもの発達と家族関係―現代の子育て事情の中で―」菅原 ますみ(お茶の水女子大助教授)
子どもの心の発達において、不適応的な行動がどう発達してしまうのか、防ぐ手だてはあるのか。私たちは、こうした研究を1984年から、家族関係との絡みの中で実際に追跡しながら、進めてきた。対象の子どもたちは現在18歳、9歳になっている。
発達心理学では、赤ちゃんの能力について、少なくとも聴覚に関しては胎児期から、視覚やさまざまな感覚器官は誕生時から動いているとしている。つまり、乳児は、病院から家庭に移った最初の日から、自分はどんな扱われ方をされるかを学習する。慈しんでもらえると他者への信頼感と自信が育つ。反対に虐待的な環境にあると、赤ちゃんは、他者に働きかけても怖いことが起こるだけ、という人間関係を学ばざるを得なくなる。
発達心理学でいう乳児期は1歳半ぐらいまでだが、乳児には高度な学習機能があり、人に世話をしてもらいながら世話の仕方を学んでいく。この時期の親に必要なものは2つあり、1つは実践的なスキルや知識、もう1つは精神的な健康と安定だ。
しかし、養育担当者の心理は意外に複雑で、子育ては、かわいいし楽しいけれども、大変だし憎たらしくも思うという二面性があることがわかってきた。国際比較調査で、日本の母親は「子育てはあなたの楽しみや生きがいになっているか」との問いに、「あまりそうは思えない」と答えた方が1割もいた。
3歳以下の子を持つ760人へのアンケートでは、子どもをたたくと気持ちがすっとした、子どもから逃げて部屋にこもった――などの体験をしたことがある人は2割弱いる。その背景には子育てのストレス感の高さがあり、虐待的な行動を回避する1つのルートとして、このストレス感を緩和していくことが大切になる。
1つは、母親がひとりでほっとできる時間を確保することだ。現代の若い親たちは、コミュニティーからのサポートが乏しいうえ、親自身が少子化第1世代であるので子育てのスキルが低い。子どもの健全な育ちを保障するための養育環境が、個々の家庭だけでは供給し切れない現状があろうかと思う。
子どもたちが、怒りの衝動をコントロールできずに乱暴だったり、注意のコントロールがうまくいかずに多動だったり、そうした問題行動の発達に親子関係がどう絡むか。
私たちの長年の研究で、子どもの5歳時における母親の否定的感情が、8歳時の子の衝動性型問題行動を促進させ、その8歳時の問題行動がさらに、次の時期における母親の否定的感情を促進させるというように、悪循環のパターンに入っていくことがデータでわかってきた。こうした悪循環を防ぐことが私たちの研究の最終目的でもあるのだが、どういった因子があれば、そうした発現が防げるのか分析してみた。
例を見てもらうと、1つは父親がいい養育態度であったということ、もう1つは夫婦関係が子どもの赤ちゃん時代のころよりいいものであったことが見えてきた。
そこで、私たちは夫婦関係が重要ではと考え、分析を深めている。博報堂が10年に1度行う調査で、結婚時の愛情を100とすると、夫側は50代でも下がらないが、妻は30代で100を切り、50代では88点まで下がってくる。
パパがママをいつまでも好きだということが、子どもたちの幸せの半分を担っている。しかし、なぜかママのパパに対する気持ちが冷めていく。そのあたりを分析して見えてきたのが、子どもが小さいときにおける夫の家事・育児への協力度だ。それが妻の信頼感を再形成し、それが10年ぐらい安定して続く。この乳幼児期での再形成のところで、うまく夫への信頼感が築けるか否かが重要であろうということが見えてきた。
10歳の子でも親の気持ちをよくわかっている。家庭でほっとできる、伸び伸びできることに、両親が一緒にいて楽しそうかどうかという評定がかかわっていた。家庭の雰囲気がいいと、子供の抑うつを和らげ、サポートする機能がある。そうした家庭の雰囲気に、やはり両親の愛情関係がしみ出していく。
子どもの心の育ちは、養育者の精神的な安定と、家庭内の良好な対人関係、とりわけ両親の夫婦関係が重要である。そうした夫婦関係は、子育ての初期に1つ、大事な形成期がある。もう1つは介護のところなのだろうと思うが、夫婦ともに逆境を乗り切っていく時の協力が大事になる。家族は時間と適切なサポートがあれば、また紡ぎ直していける。その前提となるのが、家族がともに過ごす時間の確保であり、子どものどの発達段階でも重要になると考えている。
基調講演 2
「家庭-家族内暴力の視点からとらえる-」信田 さよ子(原宿カウンセリングセンター所長)
カウンセリングの仕事をしていて、この10年で最も大きかった出来事は、2000年の児童虐待防止法、01年のドメスティックバイオレンス防止法(DV法)と2つの法律ができたことだ。日本はそれまで、家の玄関に入ってしまえば妻を殴っても、子どもを殴っても、法律は適用されない状況にあった。この2つの法案によって、21世紀は法律が家庭の中にも入る時代になった。家族における人権侵害に初めてメスを入れるという意味で、画期的であったと考えている。
虐待は、一般的に身体的虐待とネグレクト、さらに性的虐待、心理的・言語的虐待と4類型がある。1990年では児童相談所への虐待の通報は1,011件だったが、2003年には2万6,569件と非常に増加している。
私たちの常識では、親子の間には虐待が発生し得る、夫婦間にはDVが生じ得ると性悪説の前提に立って考えている。そうでないと家族内の暴力はなかなか発見できない。
では虐待にどう介入するか。ほとんどの地方自治体に虐待防止ネットワークができているが、現実的に機能しているところは非常に少ない。子どものケアについても、養護施設に分離保護し、そこで育て直しをする。あとは臨床心理士がかかわったり、昔ながらに施設の職員がかかわったりするケースがほとんどだ。
3年後の法律の見直しに向け、いま何が叫ばれているかというと、施設に保護した子をもう一回、家庭に戻す、つまり家族の再統合が言われている。問題は、子どもが施設に入っている間、虐待した親は何をしているのかということだ。言葉は悪いが、親はその間、テレビを見ながらポテトチップを食べている。児童相談所は、親たちに面接に来なさいと勧告できるが、守らなくても罰則はない。月に1回ぐらい、相談所の職員が家庭に出向き、玄関先で「どうですか」と話をして帰ってくるのが現状だといわれる。
ほとんどの親が変化しない中で、子どもが家庭に戻されるとなると、悪く見れば、さらに巧妙化した虐待的な環境の中に子どもが入る形になってしまう。それが将来的な非行の背景になる危険性もあるのではないか。
03年の法改正でDVを目撃することをもって子どもの虐待とするという条文が1項目入れられたのは大きな前進だった。というのは、虐待は育てる母親の問題であるとされてきたが、実はその背後の男性が妻をどう扱っているか、どれくらい妻の育児をネグレクトしているかが子どもの発達に大きい、と初めて法案の中でうたわれたからだ。
DV及び虐待の背景に、妻はおれのもの、などという男性優位的な信念などがあることは、欧米でのDV政策で共有されている。外からは平和な家庭と見られていても、DV的な環境はあまねく存在するのではないか。夫によって満たされなかった妻、もしくは自分の人権を満たされなかった妻が、子どもによって唯一自分の存在を承認される、というような関係の連鎖があるのではないか。
つまり、夫による妻の支配、権力の行使がさらに、妻の子どもへの権力、支配の行使につながり、その子どもがさらに弟や妹を支配するという、いわゆる権力行使の連鎖が多くの家族で起こっているのではないか。
イタリアの精神分析者が、被害者は加害者の信念を内面化させることでサバイバルすると言っている。つまり、妻は、夫の例えば「働かざる者食うべからず」なる信念を自ら進んで内面化させることで、妻としてサバイバルする。そうすると、そうした信念で育てられた子は、その信念を自分のポリシーとして生きていく。それが、学校で級友をいじめるとか、自分の弟妹をいじめるといった新たな加害者を生みだす背景になるのではないか。これは、少年院の矯正にかかわる職員の間ではかなり共有された認識だ。
少年犯罪の凶悪化が言われるが、統計的には少年犯罪の件数は減っている。犯罪の形態、現象が特異なので増えていると誤解されるが、むしろ、子どもたちはどんどん静かになっていると考えている。それが育児環境の好転によって起きているのか、育児環境の管理が徹底したことで起きているのか。私は、どちらかといえば、後者の親による徹底的管理の成功によって起きていると思っている。
私は虐待問題のスーパーバイザーとして各地に行くが、虐待が起きる家族には3つの類型がある。まず、親が自ら「私は子供を虐待している」と言うタイプだ。次の中間タイプは、母親が、例えば強迫神経症だとか、人格障害的であるケースだ。つまり、強迫神経症によっておしめがかえられないといったタイプだ。
一番下のタイプはというと、彼らには、子どもを育てるという自覚が全くない。自らの快楽のために子どもを利用することに何ら罪悪感を持たない。この層が膨大に発生しているのではないか。主に児童相談所によって子どもが分離保護される家族の親たちは非常にあっけらかんとしている。「え、何で?」という感じだ。今後の日本において、この層の拡大がどのような子どもたちを生み出すのか、私は危機感を持っている。
私たちは、親は子をかわいがるものだという前提を捨てなければいけないのではないか。このような親たちを発生させないためには、例えば婚姻届の受理の条件として、子育ての講座を受けてもらうとか、母子手帳の発行の際に子育てはどういうものかを勉強してもらう。そうしたことを考えざるを得ないところまで、子どもを育む力が衰退している層が膨大に発生しているのではないか。
自由討議
「何が日本の家族に変化と問題をもたらしたのか、お二人にお聞きしたい」
菅原「昔の多子社会では兄弟が多く、自分が中学生になるころには、上のお兄さんがお嫁さんを連れてきて、家の中に赤ちゃんがいた。その中で身につけた子育ての知恵はいま、得られにくく、教育で補っていくしかない。中学生を保育園に行かせ、子育てを体験させるプログラムが組まれているが、多子社会での育ちを考えると、小さいときから絶えず異年齢の子どもたちと活動をともにする体験が大事だろう。
私は息子が2人いるが、学童保育も保育園併設のところを選び、小さい子と遊ぶようにさせ、家事もさせている。現代では、成人期になったところで子育てに理解を深めるための教育プログラムも重要だろう。企業も研修プログラムの1つとして家庭生活とか子育ての分野にも踏み込んでいくのが大事になるのでは」
信田「1つは日本の社会が非常に豊かになったことが背景にあるのではないか。飢餓感がなくなるといろいろなものが衰退していく。子育て能力も明らかに下がってきた。もう1つ、今の子育ての問題は、私たち団塊の世代が産んだ子どもたちがつくった社会の問題だということ。団塊の世代は戦後民主主義の中で、民主的なニューファミリーを形成しようとしてきた。その家族の中で子どもたちが何を学んだかが、その子どもたちによって検証されている。団塊の家族がどんな家族をつくったか、その責任があると思っている。
もう1つは女性が働いているということ。昔、女性には就職先がほとんどなく、多くが専業主婦になっていった。だが、今の女性たちは働くことが当たり前だ。自分の仕事と時間とを持つ経験を経て母親になる。すると、育児的な環境に置かれる自分と働いていたときの落差が大きく、よくも悪くも育児に大きく影響している」
「お二人に伺いたいことが2つある。例えば親子や夫婦という言葉が使われ、人間関係がとらえられているが、この場合の親は、親的役割をとる人のことか、それとも、常識的な意味での親子のことか。普通の意味での親子とか夫婦となると、他者の介入の余地はかなり難しい。今後は少子化対策の1つとして、シングルマザーの問題が出てくるだろう。西欧で合計特殊出生率が上昇している国では、婚外子を認めているという統計がたくさんある。日本も、結婚していない場合の子どもを社会的に認知していく方向に動かざるを得ないのでは。そういう方向をとった場合、親子、夫婦の問題はどう考えられるのか」
菅原「実は、ふだんは親という言葉は使わず、すべて養育者、ケアギバーを使っている。発達心理学ではこの50年間ほど、ほんとうに血縁でなければ子どもは育たないのかということを研究してきた。1つの大きな結論として、子どもに対して継続的に愛情と適切な養育を供給することが、年齢、性別、血縁にかかわらず大事であるとわかってきた。養育者ということで、すべての親的な人が含まれる。夫婦も同じだ。大事なのは家庭における大人同士の関係であり、パートナーというのがふさわしい。
離婚後の子どもの育ちについては、先進国のアメリカで多くの研究がある。その中でわかってきたことは、一緒に住んでいる親の精神的健康と人生の充実が大事であり、恋人と一緒に暮らしているのなら、その人とのいい関係が大事だということだ。それから、別れた夫婦が最低限、いい関係であること。母親が『あんな男に会ったのが百年目』と言い続けると子どもの心を損なう。離婚しても、親たちの気持ちが最低限、尊敬し合える関係に戻ることが大事だとわかってきた。その意味で、シングルマザーを支える補助もたくさんあろうかと思っている」
信田「私も、生物学的、制度的な夫婦を前提としていない。それは役割であり、だれが担ってもいいとの前提で話している。しかし、現実には、日本の家族は血縁をとても大切にする。特に虐待の場合、この子からこの親を奪ったら、どれだけいいだろうと思われる場合でも、親権にはなかなか手がつけられない。血縁が日本の社会の根幹にあることを虐待の現場の最先端にいて痛感せざるを得ない。いわゆる親的役割、夫的役割でお互いに配偶者というものが考えられたら、どれだけの子どもが救われるか。
フランスもスウェーデンも、シングルマザーを、もしくは婚外子を承認したところから人口増加が始まっている。多くの人が周知している事実だが、日本では実子というか、血縁でつながった子どもというのが唯一の最も貴重な親子であるという論調は変わらない。その辺は非常に残念だ。
虐待をされて育ち、30歳、40歳になった方の話を聞くと、子どもは小さいころから家出を考えている。この家を出られたらどんなにいいだろうと思い、3軒先の家に行って、『おばさん、この家の子どもにしてください』と言った人が何人もいる。道で出会った優しそうなお母さんを見たときに、『この家の子になりたい』とついていこうと思ったという人が何人もいる。最近は、自ら相談所に駆け込む子が増えてきている。血でつながった親が最も適切な養育者であるかどうかは、私は個別的に考えなければいけないことであり、血縁信仰、親子の愛情信仰をシャッフルしたほうがいいのではと考えている」
「愛情が子どもの健全な成長にとても大切なことはよくわかるが、夫婦間に愛情があるとはどういうことなのか。もう1つ、家庭内には法は入らずというのは、極めて正しい常識に基づいたものだと思う。家庭が崩壊していると、そこに出てくるのは人間対人間の法律、刑法による関係というふうになる。法が入らなくていいようにするにはどうしたらいいかが課題なのでは」
菅原「愛情は心理学でも最も遅れてスタートした分野だが、85年以降、アメリカを中心に研究が進んできた。1つは異性としてすてきということ、もう1つは人間として信頼できるということ。夫婦の場合はこれが固く結びついており、信頼感が低いと愛情も下がってしまうようだ。日本では『細く長く愛して』みたいなものがあると思い、『空気性』という因子を開発し研究してきたが、愛情を予測する項目になり得ていない」
信田「DVでは、夫たちの99・9%は『僕は男性優位ではない』『妻の人生を尊重しているし、愛している』と言う。妻の受けとめ方との食い違いに全く気づいていない。外国のケースと何が違うかというと、日本の男性は妻に対し、女性的魅力などではなく、母親を求めている。家に帰ってきたときにほっとでき、言うことを聞いてくれ、仕事の愚痴も聞いてくれる存在を求めている。それが満たされなかったときに、どなったり無視したり殴ったりする。これだけ多くの女性がここまで扱われているかと思うぐらい、多くのDVがある。夫の職業も経済力も関係ない。DVを振るう男性は、全員、自分が被害者だと思っている。妻のせいでこうなったと思っている」
「アメリカは起こりやすそうな気がする」
信田「アメリカなどの人たちの体を考えると、女性の肉体的な被害度は日本のほうが軽い。ただ、日本は別のDVがある。言葉と経済だ。お金を渡さない、例えば一定額しか渡さないで、妻がやりくりできないと管理能力がないと言う。おまえはだれのおかげで食べていられるのか、などの言葉を使ったDVは圧倒的に日本のほうが多いだろう。家庭に法律が入れば終わりと言われたが、入らなければ命が救われない人がいることも認めていただきたい」
「欧米やアジアの社会から見て思うのは、日本の社会では、母親への尊敬の念が低い位置に置かれていることだ。子どもに対しても、社会が注目しないし、かわいがらない。小さな子を連れて外出すると、ヨーロッパならこんなことはないのになと思わされることがしばしばあった。妊婦へのいたわりは当然あるべきだし、母親へのいたわりもあるべきだ。日本の若い女性たちはそれを敏感に感じているから、少子化になるのではないか」
菅原「おっしゃるとおりで、このまま少子化が進んでいくと、ますます子どもの席が小さくなるだろう。埼玉のある団体は、町で子ども連れのお母さんを見たら、お子さんをかわいいねとほめよう、ご苦労さまと声をかけようという運動をされている。どこかで意識的にムーブメントとして取り組んでいくしかないのでは。根本的には、小さいときから子どもをかわいがるのよ、お母さんを尊敬するのよという教育が大事だと思う」
「信田さんのお話にショックを受けた。夫婦、親子、兄弟は共通の価値観を持ち、協調し、社会で懸命に生きていくものと思う。日本人は、文化への誇り、敬意を浸透させていくことが大事ではないか。基本は家庭にあり、親から子へ、孫へと伝えていくことが大事だ。高い倫理や道徳は家庭でないと培うことが難しい」
信田「全く同感だが、今も子どもが殺されたり、女性が殴られたりしている。その現実の中で、私の仕事は、そういう人たちがより安全な、よりほっとできる家族、環境にどうしたら戻れるか、どうしたら親に変わってもらえるかだ。そのために法律は有効であろうと思うのであって、どの家族にも法律が入れと言っているわけではない。多様性を認めていただきたい、現実をできるだけ見ていただきたいと思う」
「お二人とも、コミュニティーというか、周りの協力関係が大事だとおっしゃる。コミュニティーと家庭が乖離をしてきたことの原因、理由についての調査研究はあるのか。公立の中学校を例にとっても、PTAの役員などをやろうという親はいないという状況になっているが、一体どうしてそういうふうになってきたのか」
信田「コミュニティーの力の衰退は、若い人たちが身辺の1メートルぐらいのコミュニティーで生きているというような、人間関係が小さなセルというか、そういうものに収縮していることにあるのではないか。どんどん広がってつながっていくのではなく、どんどん自分の個の側に小さくなってきている。それも地方都市のほうに多いのではないか。地方都市の、モータリゼーションというか、世間の目から逃れるために車に乗るということによって、よりそのコミュニティーが縮小している背景があるのではないか。
私たちの職業が成り立つようになったということは、すでにある意味では家庭の力の限界が来たということだろう。家庭をもたせるためには、メンテナンスをどうしたらいいのかという発想が必要なのではないか」
「信田さんにお聞きしたいが、婚姻届を出す際の教育というのは、現実にはどういうふうにやればいいとお考えか」
信田「こんなことは自然にわかるだろうと言われていたことが、今は、教えないとわからない時代になった。一緒に暮らすとはどういうことか、妻を殴ってはいけないとか、子育てとは自分の時間が割かれることだが、その割かれるということが1つの喜びにもなり得るとか、当たり前のことをもう一回確認しなくてはいけないのではないか。例えば全3回の講座にして、地方自治体の一室で勉強してもらう。若い男性には、殴って教えるという常識がデートDVに多い。女の子の側も、殴られるから愛されていると考える女性がいる。非暴力とか、きちんと話をすることの重要性を教えていただけるといい」
「役所に婚姻届を出して、法律的な夫婦関係が成立する。それをやめて、信田さんがおっしゃったような、やってはいけない禁止事項を契約として結んで、それを裁判所に届けるというような考え方はどうか」
信田「そこまでラジカルなことは言えない。だが、暴力は減るかもしれないし、家庭に法が入ったときに暴力は抑止されることは確かだと思う。ライフサイクルを通し、人として人権を侵されずに生きていけるシステムづくりは必要だ。ただ、残念ながら、日本で起こってきた経過、それはアメリカもそうなのだが、現実に起きた事件、個別的な事象を政策がどう生かすかという経過をもって、全体的な流れができてきた。むしろ日本は、イギリスやアメリカやカナダから学んでいる。
例えば子供家庭省とか、女性の権利省があれば、責任を持ってライフサイクルを通した政策ができると思う。だが、行政が縦割り化された日本では、省庁間の連携がない。DVでも虐待でもそうだ。縦割りを排し、あるテーマでもって共同の政策提言がなされるよう仕組みを変えてもらえれば、私たちも仕事のやりがいがある」
菅原「全く同感だ。厚生労働省でいま、擁護の対象になる子どもたちのためのアセスメントシステ開発を担当しているが、就学前は厚労省、学齢期は文科省、そして大人になると省庁がどこもない。家庭状況のチェックひとつにしても難しい状況がある」
「信田さんが、親は子どもをかわいがるもの、との前提は捨てなくてはいけないと話された。生物学として、子育ては決して本能だけでできることではなく、やはり学ばなければできない。その学ぶことが難しくなっている。大人になる過程で子育てを体験しなくなったという話が出たが、そこが一番大きいのではないか。
子育てだけでなく、大人になる意識が欠けている人が多いように思える。自分が大人になるという意識、もう1つは子供を育てるということにおいて、10歳ぐらいのころから、ある種の教育カリキュラムを取り入れていくことができないか。
2番目は、こうした社会になったのは、やはり自然との接触がなくなっていることが1つ大きいと思っている。人間社会の問題だけではなく、もう少し広い社会の状況を考え、子どもを育てることの位置づけもやる必要があるのではないか。
3番目は、社会の二極化の問題だ。さまざまな分野からこの流れに対するアンチテーゼみたいなものを出していく努力をしないといけない。目前のことをやるのは大事だが、片方で、この流れはおかしいという意見も言っていかなくては」
「この間、サウジアラビアへ行ったが、イスラムの世界で女性は虐げられているといわれるが、家庭では母親はまことに尊敬されていた。男性たちに聞くと、世の中で最も尊敬するのは第一が母親、第二も母親、第三も母親で、絶対に父親は出てこない。そこのところはとても大事だと思う。ただ、こころを育むという場合に、子どもとどう接していくかという面と、大人自身がどう自らを鍛え、成長し、成熟していくかという面があることがわかった。これをよく分けて、まとめていければと思う」
「お二人のゲストスピーカーのお話、ご討議をうかがい、日本の社会、心を育む環境は激変している、家族、家庭の状況がすごく変化している。その中でどうしたらいいか、難しい問題であると痛感した。特に、信田さんが言われた子どもを育む環境における3層分化のお話を伺いながら、イエスキリストが出た時代もそうだったな、仏陀の時代もそうだったな、本質的に人間のやることは同じかなという感じがするし、だからこそイエスとか仏陀が登場してくる必然性があったのかなとも思う。
しかし、それがそういう問題として今日、必ずしも問題意識として共有されていない。これはこれでもう1つ考えていく必要があるかなと思う。菅原さんが言われたように、家族、家庭の問題は奥が深くて広い問題を含んでいる。少し大胆に、討議を重ねていく必要があるかもしれないという印象を強く持った」