活動レポート
第19回有識者会議 基調講演:上田紀行さん(東京工業大学准教授)
- 2008年11月4日
- 有識者会議
「こころを育む総合フォーラム」の第19回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が4日朝、東京・千代田区のパレスホテルで開かれた。今回は、文化人類学者の上田紀行・東京工業大学准教授が「『かけがえのなさ』を取り戻す――危機からの回復を共有すること」と題して基調報告を行い、同フォーラムのメンバー16人のうち出席した10人との間で熱心な質疑応答が交わされた。上田氏の報告の要旨は次の通り。
20年前に私が「癒し」という言葉を使い始めた時は社会的な「癒し」と個人的な「癒し」の両方を考えていたのだが、その後の「癒しブーム」で関心が個人的・商業的な方へ行ってしまった感じがある。「癒し」型の社会に転換する必要を痛感している。きょうは、私が考える現代日本の危機の根源はどこにあり、どんな対処が考えられるかを話してみたい。 まず、私たちの社会を支えている無意識の次元の「振る舞い」というものが崩壊しているのではないかということ。秋葉原の(無差別殺傷)事件は社会に大きな衝撃をもたらしたが、「自分は使い捨てである」という犯人の意識は氷山の一角であり、若者に限らず全世代的に生み出されていると思う。自己信頼感というものを大きく欠いている人が増える中で「だれでもいいから殺したい」というような不思議な意識が生まれている。 この「使い捨て」という意識に関して、私はすごくショックを受けたことがある。小泉元首相が”小泉チルドレン”に向かって「議員は、落選すればただの人。政治家だって使い捨てだと心得よ」という意味のことを言った。すると世論調査で、まさに使い捨てられている若いワーキング・プアたちの間で小泉さんの支持率が急騰したという。使い捨てが世の中のデフォルト(標準値)であるということを小泉さんはよくぞ言ってくれた、というわけだ。私は非常に違和感を持ったが、大学の授業で学生たちに「みんなはどう思う?」と聞いたところ、人間は使い捨てだという方に半数が手を挙げた。 「使い捨て」という意識は、二つぐらいのことを含んでいると思う。一つは「自分の代わりなんて幾らでもいて、どうせ俺は部品なんだ、俺は別に俺じゃなくったっていいんだ」という「他者との交換可能性」の問題。自分は自分でなくてもいい、交換可能な存在でいいんだということが、日本人の自分のアイデンティティーというものを相当、切り崩しているのではないか。「かけがえがない」というのは「どこかに私なりのオリジナリティーがある」ということを指している言葉だが、そういうものがなくなってきている。たとえばオウム真理教の若者などが「僕が僕の人生を生きている気がしない。だれか別の人の人生を生きさせられているような気がする」と言っていた。そういう感触は非常に問題だと思う。 もう一つ、「使い捨て」が内包している問題は「この世の中に支えというものはないんだ、負けてしまえばだれも助けてくれなくて、どこまでも落ちていってしまうんだ」という、社会の中の最終的な「支え」感がないということ。見える世界にしか世界はなく、その中で勝者・敗者が決まっていき、敗者はだれも救ってくれない。「自己責任」でオシマイという部分が若者の間にも相当、浸透しているといえる。しかし、社会というものは信頼が支えていて、だれもが絶対に見捨てられることはないんだというようなメッセージが根底にない社会・文明というのは大体、早晩崩れていく。私は文化人類学者なので、そういうことを思っている。 具体的な話を一つしよう。私が教えている大学院に入ったある女の子は二十歳のころ、人生に惑ってしまって深夜、家を出て海沿いの街をフラフラと歩いていた。お寺があったけれども門が閉ざされていて、インターホンを押せば非常識をとがめられそうなので押せなかった。しばらく行くと教会があって、こちらはドアが開いていた。しばらく礼拝堂に一人で座っていたら、それまでの胸苦しさがスッと解消して「もっと苦しくなったら、またここへ来て泣き叫べば何とかなる」と思ったそうだ。いろんなことにチャレンジしていく気になったというのだ。お寺はダメで教会がいい、などという話では全然ない。この話の面白いところは、だれも彼女の本当の悩みを聞いてはいないこと。彼女が、話を聞いてもらうかどうかではなく「夜中でも開いているところがある。世の中は人を見捨てない」と体得したことだろう。私が申し上げたいのは、このような「支え」が今は崩壊しているのではないかという点にある。 いま喧伝されている新自由主義とかグローバル資本主義というものを、日本は誤解しているような気がしてならない。私はアメリカのスタンフォードで1年間教鞭を執っていたことがあるが、当時、ホリエモン(堀江貴文)さんとかその後村上(世彰)さんとかが「金で買えない物がこの世の中にあるんですか」というような発言をして、それがすばらしい、今までの日本社会にある既成概念を打ち破る発言だというふうなことで拍手喝采されているのを見て、私は愕然としてしまった。彼らは、マネーゲームという世界の資本主義の潮流に比べて日本は非常に遅れていると言うわけだ。しかし「金で買えない物はない」などと言えば、アメリカでは軽蔑のまなざしで見られる。それは、アメリカやヨーロッパのマネーゲームというのは根底でちゃんとキリスト教社会であるとか、キリスト教でなくても信仰社会というものに支えられているからだ。マネーゲームで失敗しても教会組織だとか、人間を根底から支えきれるものがあるということが前提になっている。そういう西欧社会の宗教による支えの部分を見ず、マネーゲームが世界の潮流だからこれに追随しないと日本もダメになるというような言い方は、どうしようもない。堀江さんのような人が一番の成功者なんだと日本社会が認めてしまった場合、我々は子供の教育などできなくなるのではないだろうか。 「評価が最終目標ではない」ということも強調しておきたい。評価というものは、第1に自分の成長の糧になることであり、第2には社会に貢献できるような実力をつけていくものでなければならないと思う。ところが、評価が最終目標ということになると、テストでいい点を取ることが自分の存在価値だというところに焦点が合わされるので、評価の向こう側にある大事なものが見落とされてしまう。人の目を気にする、人の評価を気にするということになって、自分がどのように社会に貢献できるのかという目標が見えなくなる。我々の社会を支えていた志というのは、金さえもうければいいという、最終的にそれを目指すのではなく、その中でこの社会に貢献していくという誇り、プライドというようなものだったはずだと思う。 私が自分の経験から確信していることは、本当に「苦悩」して「葛藤」する時にこそ「生きる意味」というものが生まれ出てくる、あるいは深い仲間というものに触れ合える、発見できるということ。交換不可能な「かけがえのなさ」には悩みと葛藤が欠かせない。そこで、私がかつてフィールドワークをしたスリランカの「悪魔祓い」という儀礼の話をしておきたい。これは、だれかが心の危機に瀕した時に村ぐるみで行われる。どんな人に悪魔がつくのかと聞いたら「孤独な人」につくという。「だれも私を見てくれない」とか「みんなのまなざしがきつい」と思ってしまう人に悪魔がつき、それを悪魔祓いという儀式で癒していく。徹夜で交わされる悪魔祓い師、患者、悪魔のやりとりは、お笑い演芸会のようで実に楽しい。この伝統的な儀式を見て私が思ったのは、「自分の人生の中で非常に孤独になってキレそうになったりした時に、文化的『振る舞い』が自然に出てくる」ということだった。悪魔祓いというのは、危機に陥った時に悪魔つきになるという文化的な振る舞いが身についている。悪魔つきになるということ自体に、もう「癒し」が含まれているわけだ。どうも日本の場合、ピンチになった時の無意識の振る舞いというのが、このごろおかしくなっているのではないか。「だれでもいいから殺したい」というような無意識の身体図式を身につけてしまっているようなのだ。 心の無意識な振る舞いというものを書き換えていく必要があると思う。自分がケアされることも重要だが、落ち込んでしまった人をいかにみんなが親身にケアしてあげているかを見せなければならない。人間はだれでも、苦しんだらばこの社会は絶対に見捨てないんだなという安心を無意識の中に築いていくということが、この社会の大きな信頼というものを支えることになるのではないだろうか。
20年前に私が「癒し」という言葉を使い始めた時は社会的な「癒し」と個人的な「癒し」の両方を考えていたのだが、その後の「癒しブーム」で関心が個人的・商業的な方へ行ってしまった感じがある。「癒し」型の社会に転換する必要を痛感している。きょうは、私が考える現代日本の危機の根源はどこにあり、どんな対処が考えられるかを話してみたい。 まず、私たちの社会を支えている無意識の次元の「振る舞い」というものが崩壊しているのではないかということ。秋葉原の(無差別殺傷)事件は社会に大きな衝撃をもたらしたが、「自分は使い捨てである」という犯人の意識は氷山の一角であり、若者に限らず全世代的に生み出されていると思う。自己信頼感というものを大きく欠いている人が増える中で「だれでもいいから殺したい」というような不思議な意識が生まれている。 この「使い捨て」という意識に関して、私はすごくショックを受けたことがある。小泉元首相が”小泉チルドレン”に向かって「議員は、落選すればただの人。政治家だって使い捨てだと心得よ」という意味のことを言った。すると世論調査で、まさに使い捨てられている若いワーキング・プアたちの間で小泉さんの支持率が急騰したという。使い捨てが世の中のデフォルト(標準値)であるということを小泉さんはよくぞ言ってくれた、というわけだ。私は非常に違和感を持ったが、大学の授業で学生たちに「みんなはどう思う?」と聞いたところ、人間は使い捨てだという方に半数が手を挙げた。 「使い捨て」という意識は、二つぐらいのことを含んでいると思う。一つは「自分の代わりなんて幾らでもいて、どうせ俺は部品なんだ、俺は別に俺じゃなくったっていいんだ」という「他者との交換可能性」の問題。自分は自分でなくてもいい、交換可能な存在でいいんだということが、日本人の自分のアイデンティティーというものを相当、切り崩しているのではないか。「かけがえがない」というのは「どこかに私なりのオリジナリティーがある」ということを指している言葉だが、そういうものがなくなってきている。たとえばオウム真理教の若者などが「僕が僕の人生を生きている気がしない。だれか別の人の人生を生きさせられているような気がする」と言っていた。そういう感触は非常に問題だと思う。 もう一つ、「使い捨て」が内包している問題は「この世の中に支えというものはないんだ、負けてしまえばだれも助けてくれなくて、どこまでも落ちていってしまうんだ」という、社会の中の最終的な「支え」感がないということ。見える世界にしか世界はなく、その中で勝者・敗者が決まっていき、敗者はだれも救ってくれない。「自己責任」でオシマイという部分が若者の間にも相当、浸透しているといえる。しかし、社会というものは信頼が支えていて、だれもが絶対に見捨てられることはないんだというようなメッセージが根底にない社会・文明というのは大体、早晩崩れていく。私は文化人類学者なので、そういうことを思っている。 具体的な話を一つしよう。私が教えている大学院に入ったある女の子は二十歳のころ、人生に惑ってしまって深夜、家を出て海沿いの街をフラフラと歩いていた。お寺があったけれども門が閉ざされていて、インターホンを押せば非常識をとがめられそうなので押せなかった。しばらく行くと教会があって、こちらはドアが開いていた。しばらく礼拝堂に一人で座っていたら、それまでの胸苦しさがスッと解消して「もっと苦しくなったら、またここへ来て泣き叫べば何とかなる」と思ったそうだ。いろんなことにチャレンジしていく気になったというのだ。お寺はダメで教会がいい、などという話では全然ない。この話の面白いところは、だれも彼女の本当の悩みを聞いてはいないこと。彼女が、話を聞いてもらうかどうかではなく「夜中でも開いているところがある。世の中は人を見捨てない」と体得したことだろう。私が申し上げたいのは、このような「支え」が今は崩壊しているのではないかという点にある。 いま喧伝されている新自由主義とかグローバル資本主義というものを、日本は誤解しているような気がしてならない。私はアメリカのスタンフォードで1年間教鞭を執っていたことがあるが、当時、ホリエモン(堀江貴文)さんとかその後村上(世彰)さんとかが「金で買えない物がこの世の中にあるんですか」というような発言をして、それがすばらしい、今までの日本社会にある既成概念を打ち破る発言だというふうなことで拍手喝采されているのを見て、私は愕然としてしまった。彼らは、マネーゲームという世界の資本主義の潮流に比べて日本は非常に遅れていると言うわけだ。しかし「金で買えない物はない」などと言えば、アメリカでは軽蔑のまなざしで見られる。それは、アメリカやヨーロッパのマネーゲームというのは根底でちゃんとキリスト教社会であるとか、キリスト教でなくても信仰社会というものに支えられているからだ。マネーゲームで失敗しても教会組織だとか、人間を根底から支えきれるものがあるということが前提になっている。そういう西欧社会の宗教による支えの部分を見ず、マネーゲームが世界の潮流だからこれに追随しないと日本もダメになるというような言い方は、どうしようもない。堀江さんのような人が一番の成功者なんだと日本社会が認めてしまった場合、我々は子供の教育などできなくなるのではないだろうか。 「評価が最終目標ではない」ということも強調しておきたい。評価というものは、第1に自分の成長の糧になることであり、第2には社会に貢献できるような実力をつけていくものでなければならないと思う。ところが、評価が最終目標ということになると、テストでいい点を取ることが自分の存在価値だというところに焦点が合わされるので、評価の向こう側にある大事なものが見落とされてしまう。人の目を気にする、人の評価を気にするということになって、自分がどのように社会に貢献できるのかという目標が見えなくなる。我々の社会を支えていた志というのは、金さえもうければいいという、最終的にそれを目指すのではなく、その中でこの社会に貢献していくという誇り、プライドというようなものだったはずだと思う。 私が自分の経験から確信していることは、本当に「苦悩」して「葛藤」する時にこそ「生きる意味」というものが生まれ出てくる、あるいは深い仲間というものに触れ合える、発見できるということ。交換不可能な「かけがえのなさ」には悩みと葛藤が欠かせない。そこで、私がかつてフィールドワークをしたスリランカの「悪魔祓い」という儀礼の話をしておきたい。これは、だれかが心の危機に瀕した時に村ぐるみで行われる。どんな人に悪魔がつくのかと聞いたら「孤独な人」につくという。「だれも私を見てくれない」とか「みんなのまなざしがきつい」と思ってしまう人に悪魔がつき、それを悪魔祓いという儀式で癒していく。徹夜で交わされる悪魔祓い師、患者、悪魔のやりとりは、お笑い演芸会のようで実に楽しい。この伝統的な儀式を見て私が思ったのは、「自分の人生の中で非常に孤独になってキレそうになったりした時に、文化的『振る舞い』が自然に出てくる」ということだった。悪魔祓いというのは、危機に陥った時に悪魔つきになるという文化的な振る舞いが身についている。悪魔つきになるということ自体に、もう「癒し」が含まれているわけだ。どうも日本の場合、ピンチになった時の無意識の振る舞いというのが、このごろおかしくなっているのではないか。「だれでもいいから殺したい」というような無意識の身体図式を身につけてしまっているようなのだ。 心の無意識な振る舞いというものを書き換えていく必要があると思う。自分がケアされることも重要だが、落ち込んでしまった人をいかにみんなが親身にケアしてあげているかを見せなければならない。人間はだれでも、苦しんだらばこの社会は絶対に見捨てないんだなという安心を無意識の中に築いていくということが、この社会の大きな信頼というものを支えることになるのではないだろうか。