活動レポート
第31回有識者会議 基調報告:上田紀行さん (東京工業大学リベラルアーツセンター教授)
- 2013年5月17日
- 有識者会議
「こころを育む総合フォーラム」の第31回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が5月17日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。
この日は、上田紀行・東京工業大学リベラルアーツセンター教授が「次世代に継承したい日本人のこころ」をテーマに基調報告し、出席したメンバー全員が真剣で深い討議を交わした。上田氏の基調報告要旨は次の通り。
まず、次世代はどういう人たちなのか。2010年に日本、アメリカ、中国、韓国の4か国で行った「高校生の心と体の健康」に関するアンケート結果を紹介したい。 「私は先生に優秀だと認められている」「親(保護者)は私が優秀だと思っている」と思う割合が、米中韓は高いのに日本だけ極端に低い。「自分が優秀だと思う」「私は価値のある人間だと思う」も同様で、「私は自分に満足している」は韓国60%、中国70%、アメリカ90%に対し、日本は20%に過ぎない。日本では先生も親も褒めないし、自分に満足していない子がたくさんいる。これは子どもたちだけの問題ではなく、親の自己意識を投影している。私たち親世代が育った経済発展が好調な時代は、自分の優秀性を言わずとも人並みでも前進できたが、今の状況で、自己認知の低い子どもたちでいいのだろうか。 満足してしまったら向上心がなくなって進歩しないという見方もある。しかし、人間としてのエネルギーが非常に低下して「生きていて、自分に満足することなんてあり得ない」というのが標準になっている。我々の世代は、満足できない自分がいるから何とかしたいと反発のエネルギーが出たが、今は復元力がなく「まあ、満足しないで、価値のない人間同士仲よく生きていこうよ」と、単なる無力主義、無気力になっていやしまいか。 これだけ自己意識の違う人間と海外の会議や外交交渉、ビジネスなどで出会ったとき、どういうコミュニケーションになるのか、大きく危惧する。まず、これが1点だ。 このデータからもう一つ言えるのは、「優秀だ」という質が日本人とアメリカ人では明らかに違うのではないかということだ。日本人の優秀さは非常に画一化し、評価の基準が単一化している。日本人は、優秀かどうかを学校の成績で考える。アメリカの高校生の9割が「私は優秀だ」と思うのは、優秀さの価値基準が単一の偏差値や学業ではないからだ。ギターがうまい子は優秀だと親に褒められ、ボランティアをやったら親にも先生にも褒められた成功体験から、自分が優秀だと思う。 こういう話を日本ですると面白いことが起きる。「先生、褒めたほうが子どもは伸びるんでしょうか」と聞かれる。褒めるか褒めないかも、子どもを伸ばすかどうかに結びつく。アメリカの親は、ギターを弾けたりボランティア活動したりする子どもを、その子を伸ばすとか偏差値を上げるという教育的効果からではなく、本心から喜んで誇りに思う。どっちが伸びるのかではないのに、日本でその話をするとなぜか「子どもは叱ったほうが伸びるか、褒めたほうが伸びるか」と戦略の話になるところに、日本の価値観の単一化が見てとれる。日本は一億総中流というような単一的な幻想があり、みんなが同じほうを目指して当たり前と、欲求、欲望が単一化してしまった。 せんだって、MIT、ハーバード、ウェルズリーというアメリカのリベラルアーツのトップ大学を訪ねた。語られたのは、ダイバーシティー(多様性)とコミュニケーションだ。世界は多様であることが自明だから、成員が多様であるとともに、社会には多様な欲求があると理解することが大変重要だ。 全ての人間が全てできるわけではない。自分よりも算数ができる友達がいるとき、「おれが算数できない分、社会に貢献してくれる友達がいるので、おれは物語を読んで楽しくやっていける。おまえみたいなできる人間がいるので、本当にうれしい」と感じるのか、「こんなできる人間の横で、自分はたいしたことない」と感じるのか。多様な人がいることを相乗性として感じられる社会か、その反対で相克性、人が人の勢いを殺し合うと感じる社会か。どうも日本の子どもたちは、違いがあり、自分よりも優秀な人がいることを相乗的に思えず、非常に相克的に感じているのではないか。 例えば、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」という詩の最後の1行「みんな違ってみんないい」が人気だが、果たしてほんとうに人生哲学になっているか。世界はコストを払って、本当に違っていていいか考え抜いている。コストを払わず、議論せずにやってきたことを私たち教育者や、全ての日本人がこれから考えていかなければいけないと思う。 先日、教え子の女性がタイ人と結婚した。新郎の父が「徳の高い女性と結婚できて何と幸せなことか」と語るのを聞き、タイの力強さを思った。タイも立身出世といった指標を求めつつ、毎日徳を積んで人生の高みを目指すという複線化された価値観を生きている。日本人は単線化してしまったが、まだ複線化、複々線化、あるいは新しいものを作り上げていけるのではないか。複線化した社会のほうが強く、人間に優しい、と思っている。
まず、次世代はどういう人たちなのか。2010年に日本、アメリカ、中国、韓国の4か国で行った「高校生の心と体の健康」に関するアンケート結果を紹介したい。 「私は先生に優秀だと認められている」「親(保護者)は私が優秀だと思っている」と思う割合が、米中韓は高いのに日本だけ極端に低い。「自分が優秀だと思う」「私は価値のある人間だと思う」も同様で、「私は自分に満足している」は韓国60%、中国70%、アメリカ90%に対し、日本は20%に過ぎない。日本では先生も親も褒めないし、自分に満足していない子がたくさんいる。これは子どもたちだけの問題ではなく、親の自己意識を投影している。私たち親世代が育った経済発展が好調な時代は、自分の優秀性を言わずとも人並みでも前進できたが、今の状況で、自己認知の低い子どもたちでいいのだろうか。 満足してしまったら向上心がなくなって進歩しないという見方もある。しかし、人間としてのエネルギーが非常に低下して「生きていて、自分に満足することなんてあり得ない」というのが標準になっている。我々の世代は、満足できない自分がいるから何とかしたいと反発のエネルギーが出たが、今は復元力がなく「まあ、満足しないで、価値のない人間同士仲よく生きていこうよ」と、単なる無力主義、無気力になっていやしまいか。 これだけ自己意識の違う人間と海外の会議や外交交渉、ビジネスなどで出会ったとき、どういうコミュニケーションになるのか、大きく危惧する。まず、これが1点だ。 このデータからもう一つ言えるのは、「優秀だ」という質が日本人とアメリカ人では明らかに違うのではないかということだ。日本人の優秀さは非常に画一化し、評価の基準が単一化している。日本人は、優秀かどうかを学校の成績で考える。アメリカの高校生の9割が「私は優秀だ」と思うのは、優秀さの価値基準が単一の偏差値や学業ではないからだ。ギターがうまい子は優秀だと親に褒められ、ボランティアをやったら親にも先生にも褒められた成功体験から、自分が優秀だと思う。 こういう話を日本ですると面白いことが起きる。「先生、褒めたほうが子どもは伸びるんでしょうか」と聞かれる。褒めるか褒めないかも、子どもを伸ばすかどうかに結びつく。アメリカの親は、ギターを弾けたりボランティア活動したりする子どもを、その子を伸ばすとか偏差値を上げるという教育的効果からではなく、本心から喜んで誇りに思う。どっちが伸びるのかではないのに、日本でその話をするとなぜか「子どもは叱ったほうが伸びるか、褒めたほうが伸びるか」と戦略の話になるところに、日本の価値観の単一化が見てとれる。日本は一億総中流というような単一的な幻想があり、みんなが同じほうを目指して当たり前と、欲求、欲望が単一化してしまった。 せんだって、MIT、ハーバード、ウェルズリーというアメリカのリベラルアーツのトップ大学を訪ねた。語られたのは、ダイバーシティー(多様性)とコミュニケーションだ。世界は多様であることが自明だから、成員が多様であるとともに、社会には多様な欲求があると理解することが大変重要だ。 全ての人間が全てできるわけではない。自分よりも算数ができる友達がいるとき、「おれが算数できない分、社会に貢献してくれる友達がいるので、おれは物語を読んで楽しくやっていける。おまえみたいなできる人間がいるので、本当にうれしい」と感じるのか、「こんなできる人間の横で、自分はたいしたことない」と感じるのか。多様な人がいることを相乗性として感じられる社会か、その反対で相克性、人が人の勢いを殺し合うと感じる社会か。どうも日本の子どもたちは、違いがあり、自分よりも優秀な人がいることを相乗的に思えず、非常に相克的に感じているのではないか。 例えば、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」という詩の最後の1行「みんな違ってみんないい」が人気だが、果たしてほんとうに人生哲学になっているか。世界はコストを払って、本当に違っていていいか考え抜いている。コストを払わず、議論せずにやってきたことを私たち教育者や、全ての日本人がこれから考えていかなければいけないと思う。 先日、教え子の女性がタイ人と結婚した。新郎の父が「徳の高い女性と結婚できて何と幸せなことか」と語るのを聞き、タイの力強さを思った。タイも立身出世といった指標を求めつつ、毎日徳を積んで人生の高みを目指すという複線化された価値観を生きている。日本人は単線化してしまったが、まだ複線化、複々線化、あるいは新しいものを作り上げていけるのではないか。複線化した社会のほうが強く、人間に優しい、と思っている。