活動レポート
第33回有識者会議 基調報告:梶田叡一さん(奈良学園理事)
- 2014年3月6日
- 有識者会議
「こころを育む総合フォーラム」の第33回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が12月17日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。
この日は、メンバーの梶田叡一・奈良学園理事が「<生きる力>ということの表層と基層と」というテーマで基調報告を行い、次世代に継承したい日本人のこころのあり方をめぐって、出席したメンバー間で熱心に議論が交わされた。梶田理事の報告要旨は次の通り。
若い人の心を育むということの基本的な考え方について話したい。何を具体的に育むのか。1つは世の中できちっとやっていくために必要な育ち、もう一つは自分の人生をどう生きていくか、のために必要な育ち、この2つだ。これを「我々の世界」を生きる力と、「我の世界」を生きる力と、言うことにする。 例えば、キャリア教育は、世の中でどう生きていくかという進路に関わっている。自分が何に向いているか、自分は世の中で何をやりたいかを考えさせていくが、これは「我々の世界」を生きる力を付ける教育だ。そのためには世の中はどうなっているかを知らなくてはならない。挨拶できる、人とコミュニケーションがとれる、あるいは仕事では「報・連・相」(報告・連絡・相談)が必要となる。それぞれの仕事の役割をこなすための基本的な知識や能力を身につけさせていくのがキャリア教育だ。 しかし人生が長くなり、世の中で役割を果たしていくだけでは済まなくなっている。例えば65、70歳で社会の第一線を退いたとしても、85や90歳まで生きる。昔は、余生とか老後と呼んで、余った命、付録の人生のような発想をしていたが、本当はおかしい。 自分自身を一個人として見ると、生まれてから死ぬまでが一つのまとまった人生であって、ステージ(時期)ごとに世の中との関わり方が違う。小さいときは学校で教育を受けて過ごす。仕事に就くと、若いときはこき使われて、中堅になれば上と下からのサンドイッチ、上になれば若い人とどううまくやっていくかと苦労して、この時期が終わると、毎日が日曜日になる。 でも、これは余生でも何でもない。仏教は4つのステージに分けて言う(四住期)。勉強に励む「学生期」、結婚し家の仕事に就く「家住期」、一時的に家を出て自分の夢を追う「林住期」、乞食して聖者への道を歩む「遊行期」だ。人生の各ステージを考えた場合、世の中でどう生きていくかという土台に、実は自分の人生をどうやって生きていくかという、「我の世界」がある。 残念なことに今、青年期に自分の人生を考えるということがなくなってしまった。多くの大学生が「我々の世界」をどう生きるかということも、「我の世界」をどう生きるかということもあまり考えないで、いわばオートマティック・プロモーションで、自動的に中学から高校へ行き、高校から大学へと進んできている。目先のよりましな学校に行くにはどうしたらいいか、ぐらいしか考えないで、社会に出てもなかなかうまくいかない。だからキャリア教育が強調されているわけだが。でも、キャリア教育だけではだめで、人生教育をしなければいけない。キャリア教育で、「夢や志を持って」という。危なっかしい発想だと思う。就職して3年以内に離職する人が非常に多いが、下手に夢や志を持っている人が挫折しやすい。自分の思い描いていた仕事とは違う、と。 世の中で「我々の世界」を生きていくには、自分で頑張りさえすれば、何とか認めてもらえるというわけではない。頑張りようもあれば、認められようもある。そのプロセスでどこまで我慢しなければいけないのか、どこまで挫折に耐えなければいけないのか、覚悟しておくことが実は「我々の世界」を本当に生きる力だ。 よく、心に傷をつけちゃいけない、叱っちゃいけない、挫折させちゃいけない、ということを言う人がいるが、こういう発想で子どもを育てていったら「我々の世界」を生きる力がついていかないのではないか。過度になってはいけないが、小さいときから挫折したり、叱られたりしなくては、世の中でやっていけないと考えている。社会に出ていけば、役割期待という、その組織なり社会で、おのずから期待される中身をこなせなければいけない。これらをすべて考えながら「我々の世界」でやっていかなくてはならない。しかし、実はその土台として、強靭な「我の世界」を生きる力を育てておかないと、世の中でうまくいこうがいくまいが、結局はその人の人生というものは充実したものにならない。 「我の世界」を生きる土台は、内面世界に何か確固としたものがなくてはいけない。自分の実感で納得し、本音でぴんと来る、わくわくする、これだと思える、こういうものをどう持っているか。これが自分の独自固有の世界を生きていくことだろうと思う。世の中との関係の薄い長い時期を、自分で自分を支えながら生きていかなければいけない。自分の実感、納得、本音は何なのか。自分をわくわくさせるもの、どきっとさせるものは何か。心を育てる中で、気づかせることが必要ではないか。学校で「我の世界」を生きるということについて、考える機会を与えなければいけないのではないか。
若い人の心を育むということの基本的な考え方について話したい。何を具体的に育むのか。1つは世の中できちっとやっていくために必要な育ち、もう一つは自分の人生をどう生きていくか、のために必要な育ち、この2つだ。これを「我々の世界」を生きる力と、「我の世界」を生きる力と、言うことにする。 例えば、キャリア教育は、世の中でどう生きていくかという進路に関わっている。自分が何に向いているか、自分は世の中で何をやりたいかを考えさせていくが、これは「我々の世界」を生きる力を付ける教育だ。そのためには世の中はどうなっているかを知らなくてはならない。挨拶できる、人とコミュニケーションがとれる、あるいは仕事では「報・連・相」(報告・連絡・相談)が必要となる。それぞれの仕事の役割をこなすための基本的な知識や能力を身につけさせていくのがキャリア教育だ。 しかし人生が長くなり、世の中で役割を果たしていくだけでは済まなくなっている。例えば65、70歳で社会の第一線を退いたとしても、85や90歳まで生きる。昔は、余生とか老後と呼んで、余った命、付録の人生のような発想をしていたが、本当はおかしい。 自分自身を一個人として見ると、生まれてから死ぬまでが一つのまとまった人生であって、ステージ(時期)ごとに世の中との関わり方が違う。小さいときは学校で教育を受けて過ごす。仕事に就くと、若いときはこき使われて、中堅になれば上と下からのサンドイッチ、上になれば若い人とどううまくやっていくかと苦労して、この時期が終わると、毎日が日曜日になる。 でも、これは余生でも何でもない。仏教は4つのステージに分けて言う(四住期)。勉強に励む「学生期」、結婚し家の仕事に就く「家住期」、一時的に家を出て自分の夢を追う「林住期」、乞食して聖者への道を歩む「遊行期」だ。人生の各ステージを考えた場合、世の中でどう生きていくかという土台に、実は自分の人生をどうやって生きていくかという、「我の世界」がある。 残念なことに今、青年期に自分の人生を考えるということがなくなってしまった。多くの大学生が「我々の世界」をどう生きるかということも、「我の世界」をどう生きるかということもあまり考えないで、いわばオートマティック・プロモーションで、自動的に中学から高校へ行き、高校から大学へと進んできている。目先のよりましな学校に行くにはどうしたらいいか、ぐらいしか考えないで、社会に出てもなかなかうまくいかない。だからキャリア教育が強調されているわけだが。でも、キャリア教育だけではだめで、人生教育をしなければいけない。キャリア教育で、「夢や志を持って」という。危なっかしい発想だと思う。就職して3年以内に離職する人が非常に多いが、下手に夢や志を持っている人が挫折しやすい。自分の思い描いていた仕事とは違う、と。 世の中で「我々の世界」を生きていくには、自分で頑張りさえすれば、何とか認めてもらえるというわけではない。頑張りようもあれば、認められようもある。そのプロセスでどこまで我慢しなければいけないのか、どこまで挫折に耐えなければいけないのか、覚悟しておくことが実は「我々の世界」を本当に生きる力だ。 よく、心に傷をつけちゃいけない、叱っちゃいけない、挫折させちゃいけない、ということを言う人がいるが、こういう発想で子どもを育てていったら「我々の世界」を生きる力がついていかないのではないか。過度になってはいけないが、小さいときから挫折したり、叱られたりしなくては、世の中でやっていけないと考えている。社会に出ていけば、役割期待という、その組織なり社会で、おのずから期待される中身をこなせなければいけない。これらをすべて考えながら「我々の世界」でやっていかなくてはならない。しかし、実はその土台として、強靭な「我の世界」を生きる力を育てておかないと、世の中でうまくいこうがいくまいが、結局はその人の人生というものは充実したものにならない。 「我の世界」を生きる土台は、内面世界に何か確固としたものがなくてはいけない。自分の実感で納得し、本音でぴんと来る、わくわくする、これだと思える、こういうものをどう持っているか。これが自分の独自固有の世界を生きていくことだろうと思う。世の中との関係の薄い長い時期を、自分で自分を支えながら生きていかなければいけない。自分の実感、納得、本音は何なのか。自分をわくわくさせるもの、どきっとさせるものは何か。心を育てる中で、気づかせることが必要ではないか。学校で「我の世界」を生きるということについて、考える機会を与えなければいけないのではないか。