活動レポート

第35回有識者会議 基調講演:西垣通さん(東京経済大学教授、東京大学名誉教授)

東京経済大学コミュニケーション学部教授(東京大学名誉教授)の西垣通さん 「こころを育む総合フォーラム」の第35回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が9月17日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。 この日は、東京経済大学コミュニケーション学部教授(東京大学名誉教授)の西垣通さんが基調講演を行った。基礎情報学の第一人者として知られる西垣さんは「機械の心と人間の心――情報社会でどう生きるか」をテーマに、注目を集めている「集合知」のあるべき姿や今後の課題について、自身の経験に基づき分かりやすく説明。日本人の「こころ」のあり方に取り組んでいる出席メンバーはそれぞれの立場から熱心な質問や意見を交わし合い、これまでにも増して有意義な会議となったようだ。西垣さんの講演要旨は次の通り。
 私は経歴が普通の学者と少し変わっていて、理科系から文科系に移ったということになっている。大学の工学部を出た後、日立製作所のエンジニアとしてコンピューターソフトウエア、特に大きなオペレーションシステムやデータベースなど理系の研究をしていたが、その後アメリカに留学してスタンフォード大で人工知能などを学んだ。やがて日立を辞めて明治大に移ってからは情報社会論を研究し始め、それからフランス現代思想に関心が強まってフランスに留学。文科系の論文や本を書いているうちに、東大社会科学研究所からお呼びが掛かって多言語インターネットと取り組むようになった。東大に文理融合の大学院情報学環が出来ると、設立と同時に参加して基礎情報学という新たな学問を研究・教育してきた。東大で定年を迎えた昨春からは、その応用に東京経済大で携わっている。  情報社会といっても従来、文系の学者と理系の研究者との間には溝があった、つまり扱っている情報概念の組み立て方が全く違う。簡単に言うと、理系では情報の意味内容を問わずに形式処理をするのに対して、文系では社会的・人間的な情報の意味処理が対象になる。コンピューターが高性能化してきて、例えば「ロボットは感情を持てるか」という問題が出てくる時代に、情報の根本的な概念がぐらついているのはまずい。私が専門とする基礎情報学は、この文系と理系の溝を埋めて、両者を結びつけようとするものだ。  90年代の終わりに、チェスのチャンピオンがコンピューターと対戦して負けるという出来事があり、知的能力でコンピューターが人間に勝ったというので大変なニュースになったが、西洋人は日本人よりも、それをもっと深刻に受け止めたように思える。日本の場合、文系と理系の間の溝もあって、問題を浅くとらえているのではないか。人間は意味というものを考えながら情報を処理しているが、ロボットは意味を全く分からず単に形式的な処理をしている。それならロボットは感情など持てないはずなのに、日本人はそこを曖昧にしている。関連して昨今、私が心配しているのは、ビッグデータのことだ。非常にたくさんのデータを活用すること自体は決して悪いことではない。実用的な目的に使うことには何の問題もないのだけれども、難しい判断までもすべて機械の統計処理に任せてしまって「人間はもう考えなくていいんだ」というところまで行きはしないか。人間が行うはずの思考を機械に任せてしまうことについては「それ、本当に大丈夫なのかな」と感じる。もっと深く考えてみる必要があるのではないだろうか。  いま私のいる東京経済大で文系の学生たちと話していると、ちょっと気になることがある。誰もがスマホを持ちIT(情報技術)を使っていて、操作能力は私などよりずっと高いのだが、コンピューターの工学的な仕組みには何の知識も興味も持っていない。どうも、人間のほうが機械に近づいているようなイメージがある。ロボットが感情のある「心」を持てるかという問題に関してはアメリカなどで大議論が続いていて、今も決着はついていない。しかし逆に人間の心が機械的になっていくことは十分可能なわけで、その点を私は批判してきたのである。むろん、コンピューターはすばらしいものではあるが、これをどうポジティブに使っていくべきかをよく考えなければならないだろう。  そこで大切になってくるのが「集合知」だ。Web2.0の登場でブログ、ツイッター、フェイスブックなど、インターネット上で誰もが自由に発言できる今は、手軽に一般の人々の衆知を集めることが可能になってきた。科学の専門研究に一般の人も参加できる「オープンサイエンス」などは好例だろう。チェスの話に戻ると、前述の天才チャンピオンを相手に「次の一手」をネット上で投票して決めるという対局があった。参加した約5万人の多くはアマチュアで勝敗は明らかと思われたが、天才は意外な大苦戦を強いられた。この原因は熟議にあった。一手打つのに1日かける徹底的な討論が行われ、熟議をリードしたのは15歳の才能ある少女だった。私はこの、リーダーのもとで人々が行う熟議が大事だと思う。つまりコンピューターに全部任せるのではなく、普通の人々の知恵をコンピューターを利用して上手にオーガナイズすることで、衆知が結集できるのである。テレビのクイズ番組のような場合は、熟議なしに視聴者代表が単純投票しても衆知を結集できる。しかし、チェスのように問題が複雑になると、どうしても熟議が必要になると思う。  きょう皆さんのお手元に配らせてもらったのは、私がつい最近書き上げた本(「ネット社会の『正義』とは何か」=角川選書)だが、政治の分野には疎い私がこれを書いた理由は、政策決定や社会正義をめぐる難問に対処するのにも「集合知」を生かすべきだと考えるからである。昔のエリートというのは教養があって全体をカバーできたかもしれない。しかし、専門の細分化が進んだ現在は、専門知識はあっても複合領域的な問題が出てきた時にまともな答えを言えるエリートがいない。例えば原発やエネルギーの問題、死刑の是非などの難問だ。そうなると皆で考えるという選択肢が出てくるが、そうかと言って普通の素人に問題を投げて単純投票で決めるというのは危険過ぎる。政治について言えば、私はジャーナリストの存在も極めて大事だと思っている。政治の問題を常に一生懸命考えているジャーナリストなどが加わって、ネットの中の討論で、それなりの答えを出していくためには、どういう「仕掛け」が必要なのだろうか。本書ではこのテーマを考えたわけだ。  現代のような高度情報社会になると、ITの影響は必ずしもいいことばかりではなく、いろいろな問題をはらんでいるということが明らかになってきた。人間の心を機械化し、貧しくする恐れもある。そういう中で、インターネットやITを上手に使っていくためには、どういう知恵が必要なのか。それこそ衆知を結集した熟議に期待したい。