活動レポート
こころを育む総合フォーラム 「シンポジウム」 【第1部・山折座長の講演】
- 2015年6月25日
- シンポジウム
第 1 部. 講演
テーマ:「次世代に伝えたい日本人のこころ」
講演者: 山折 哲雄氏
(国際日本文化研究センター名誉教授、こころを育む総合フォーラム座長)
もう50年近く前になるが、大ベストセラーになった土居健郎さんの『「甘え」の構造』という本がある。甘えというのは親子、夫婦、友人、師弟など親しい相手との人間関係が基本だが、相手あってこその甘えの関係は人間一般に共通して見られる。この本が2000年あたりを境に関心を持たれなくなった原因について、土居さん自身が増補版の中で、甘えの関係で重要な役割を果たしていた「相手」がITの情報社会の中で失われた、と分析しているのを読んで、私は「なるほど」と思った。
2000年前後というのはオウム真理教の事件をはじめ、それまでは思いもしなかったような大事件が続発した時期だが、その頃からメディアなどを通じて「心の闇」という言葉が盛んに使われるようになった。私の観察では、甘えの人間関係において最も重要だった「相手」というものが、いつのまにか気がついてみると「他者」という言葉に置き換えられてしまっていた。それを媒介したのが、もしかするとITに基づく情報社会――相手が見えなくなってしまっている状況――なのではないか。そこに「心の闇」の深さの秘密があるような気がする。
そう思っていた時、私の心に浮かんだのが、100年前に夏目漱石が書いた小説『こころ』の世界だった。朝日新聞に連載された時のタイトルは漢字の「心」だったが、しかし本人の強い希望で岩波書店から単行本として出版された時には平仮名の「こころ」と変えられていた。それはいったいどうしてだったのか。これは以前から私が抱いていた疑問で、その理由を明示する資料にはまだ出合っていないが、江藤淳さんが指摘した通り、出版された『こころ』の表紙の装丁には中国の儒者・荀子の言葉が組み込まれていて、私はそこに着目するようになった。荀子という人は、人間は本来善なる存在であるとする孟子の「性善説」に対して、人間とは一皮むけば悪と罪にまみれた存在だという「性悪説」を説いた思想家だ。そこで私の解釈だが、漱石は、自分が「心」という小説を書いたのは性善説の立場からではない、むしろ人間というのは一皮むくと悪いことを平気でする存在だということに、あらためて気がつき、それであとから述べるようにタイトルを変えなければと思いついたのではないか。タイトルを「心」から「こころ」に変えたのは、そんな漱石の内面的な動機があったからではないだろうか。
小説『こころ』の最後に「先生の遺書」という部分が出てくるが、その中に、表紙を飾った荀子の思想をそのまま日本語で表現した先生の言葉が出てくる。良いことをしようとするのが普通の人間だが、どんな善人でも何かの拍子で悪いことをする人になってしまう……。『こころ』では、誠実に学問の道を進んでいるはずの先生が親しい友人のKを裏切って、その愛する女性を奪ってしまったという告白が出てくるが、それに当たるだろう。ここに出てくる善人・悪人論は荀子の考え方に即応するわけだ。『こころ』の直前に書かれた『行人』の主人公は、妻と弟をめぐる悩みから神経衰弱になり、自分に残された選択肢は発狂か自殺か宗教かの3つのいずれしかないと思い詰めるが、どれも選べない。これは漱石自身の体験に基づく告白で、3つの門のどれをもくぐることのできなかった者が抱く「こころ」の苦しみは小説『門』でも主題になっているものだ。この100年、日本人の多くが人生や教養の指針として愛読し続けてきた漱石文学の影響力を考えると、こころの世界というものがいかに重く、深く、難しい問題であるかを思わずにいられない。
さて、漱石が「こころ」と「心」を使い分けた理由についてであるが、そのことを考えるうちに気づいたことがある。単純化しては言えないが、万葉集や源氏物語には平仮名の「こころ」という言葉が沢山でてきて人間のあらゆる喜怒哀楽の感情や精神世界の現象を表現しているが、それはいってみれば人間の煩悩そのものを表していて〝煩悩系〟と言ってもいいだろう。つまり今日いうところの「心の闇」に通じるような煩悩系の世界をそれであらわそうとしていることがわかる。そのことを物語作者たちは自覚していたからこそ、それをどうにかしなければならない、煩悩系のこころを飼い慣らしコントロールしなければならない、という問題意識がそこから生まれた。そこで大きな役割を果たし始めるのが漢語系の「心」で、その仕事を最初に体系的にやったのが中国に留学した僧侶たちだったと私は思う。空海が「十住心」、最澄が「道心」という言葉を使い、以後は菩提心、求道心などたくさん使われるようになる。やがてそれが芸術や心身訓練の世界でも、例えば世阿弥の初心、無心、それから心身一如、さらには心技体という風に漢字の「心」を用いる例が広がっていった。今日の道徳心、公共心、愛国心というのもその流れの中から使われるようになった。 一方ではもちろん大和言葉の「こころ」も至るところで使われていく。それは相手との親しい関係性の中においても、反発し合い憎しみ合う関係性の中でもさかんに使われるようになった。言ってみれば和語系・大和系の「こころ」と漢語系の「心」が二重構造化し、その中で日本人の伝統的な「心・こころ」に対する考え方が作られていく、そして育まれていった。だからこそ外国の日本研究者はこの言葉遣いに強い関心を示している。けれども、英語でもドイツ語でもフランス語でも、日本人が使っている「心・こころ」の世界を十分には表現しきれない、とかれらは異口同音に嘆いている。中国文明を受け入れてきた日本人の「和魂漢才」、あるいは明治以降の「和魂洋才」にも共通する二重構造の文化意識の問題であるが、その根本にあるのは、やはり言葉の問題だろう。万葉仮名の時代に始まって片仮名、平仮名、やがて漢字交じりの平仮名・片仮名の文章が書かれるようになる。宗教言語として漢字の「心」が成熟した13世紀には、親鸞も道元も日蓮も漢字仮名交じりのすばらしい文章を書いている。 この伝統ある構造が揺らぎはじめたということが、あるいは2000年前後からのIT問題と深いかかわりがあるかもしれない。日本語が限りなく平仮名化、片仮名化して漢字の比重がだんだん低くなっているという問題がそれとかかわっている。私は、漱石が提出した漢字の「心」と平仮名の「こころ」という問題、この二重構造による伝統的な人間の内面世界をもう一つ上のレベルで考えるとどうなるか、それを解くための試みを続けてきているつもりなのだが、なかなかうまくいかない。グローバルな価値尺度としてはITの技術の方が圧倒的な力を持っているからだ。さて、どうしたらいいか。容易には解決できない問題だが、私はそこに一つのヒントのようなものがないわけではないと思っているので、最後に申し上げてみたい。
漱石は最晩年、未完に終わった小説『明暗』を書いたが、執筆するのは午前中だけで、午後になると絵を描き漢詩や俳句を作った。最後に求めた境地が「則天去私」だったとはよく言われることだが、絵や詩歌に打ち込むことによって彼は煩悩系の「こころ」の世界から自分を解放しようとしていたのではないかと私は思っている。絵や詩のほかに書もよく書いていて、それは至福の時間だったようだが、親しい友人だった画家の津田青楓は、良寛の書に親しむ以前と以後とで漱石の書には大きな変化があるという意味のことを言っている。言われてみると、良寛という存在が不思議な魅力で迫ってくる。 冒頭で挙げた土居健郎さんに生前お目にかかり、「外国で最先端の精神医学を修めた先生が、日本の歴史の中で一番尊敬する人物は誰ですか」と尋ねたら、「それは、良寛です」という答えが返ってきた。私は驚いたが、やがて納得した。土居さんの良寛と、津田青楓の言葉から浮かび上がる漱石の良寛は重なる。私は、かねてから良寛という人物は近世の出口ではなく近代の入り口に立つ人だと思っているが、漱石が直面して悩んだ「こころ」の二重性を受け入れ、そしてその水準を超えていくための、その入り口というか希望の輝きとして存在しているのが良寛なのではないか、と思うようになった。これは個人的なつぶやきで、インターネットを全然使えない私の〝ツイッター〟である。
さて、漱石が「こころ」と「心」を使い分けた理由についてであるが、そのことを考えるうちに気づいたことがある。単純化しては言えないが、万葉集や源氏物語には平仮名の「こころ」という言葉が沢山でてきて人間のあらゆる喜怒哀楽の感情や精神世界の現象を表現しているが、それはいってみれば人間の煩悩そのものを表していて〝煩悩系〟と言ってもいいだろう。つまり今日いうところの「心の闇」に通じるような煩悩系の世界をそれであらわそうとしていることがわかる。そのことを物語作者たちは自覚していたからこそ、それをどうにかしなければならない、煩悩系のこころを飼い慣らしコントロールしなければならない、という問題意識がそこから生まれた。そこで大きな役割を果たし始めるのが漢語系の「心」で、その仕事を最初に体系的にやったのが中国に留学した僧侶たちだったと私は思う。空海が「十住心」、最澄が「道心」という言葉を使い、以後は菩提心、求道心などたくさん使われるようになる。やがてそれが芸術や心身訓練の世界でも、例えば世阿弥の初心、無心、それから心身一如、さらには心技体という風に漢字の「心」を用いる例が広がっていった。今日の道徳心、公共心、愛国心というのもその流れの中から使われるようになった。 一方ではもちろん大和言葉の「こころ」も至るところで使われていく。それは相手との親しい関係性の中においても、反発し合い憎しみ合う関係性の中でもさかんに使われるようになった。言ってみれば和語系・大和系の「こころ」と漢語系の「心」が二重構造化し、その中で日本人の伝統的な「心・こころ」に対する考え方が作られていく、そして育まれていった。だからこそ外国の日本研究者はこの言葉遣いに強い関心を示している。けれども、英語でもドイツ語でもフランス語でも、日本人が使っている「心・こころ」の世界を十分には表現しきれない、とかれらは異口同音に嘆いている。中国文明を受け入れてきた日本人の「和魂漢才」、あるいは明治以降の「和魂洋才」にも共通する二重構造の文化意識の問題であるが、その根本にあるのは、やはり言葉の問題だろう。万葉仮名の時代に始まって片仮名、平仮名、やがて漢字交じりの平仮名・片仮名の文章が書かれるようになる。宗教言語として漢字の「心」が成熟した13世紀には、親鸞も道元も日蓮も漢字仮名交じりのすばらしい文章を書いている。 この伝統ある構造が揺らぎはじめたということが、あるいは2000年前後からのIT問題と深いかかわりがあるかもしれない。日本語が限りなく平仮名化、片仮名化して漢字の比重がだんだん低くなっているという問題がそれとかかわっている。私は、漱石が提出した漢字の「心」と平仮名の「こころ」という問題、この二重構造による伝統的な人間の内面世界をもう一つ上のレベルで考えるとどうなるか、それを解くための試みを続けてきているつもりなのだが、なかなかうまくいかない。グローバルな価値尺度としてはITの技術の方が圧倒的な力を持っているからだ。さて、どうしたらいいか。容易には解決できない問題だが、私はそこに一つのヒントのようなものがないわけではないと思っているので、最後に申し上げてみたい。
漱石は最晩年、未完に終わった小説『明暗』を書いたが、執筆するのは午前中だけで、午後になると絵を描き漢詩や俳句を作った。最後に求めた境地が「則天去私」だったとはよく言われることだが、絵や詩歌に打ち込むことによって彼は煩悩系の「こころ」の世界から自分を解放しようとしていたのではないかと私は思っている。絵や詩のほかに書もよく書いていて、それは至福の時間だったようだが、親しい友人だった画家の津田青楓は、良寛の書に親しむ以前と以後とで漱石の書には大きな変化があるという意味のことを言っている。言われてみると、良寛という存在が不思議な魅力で迫ってくる。 冒頭で挙げた土居健郎さんに生前お目にかかり、「外国で最先端の精神医学を修めた先生が、日本の歴史の中で一番尊敬する人物は誰ですか」と尋ねたら、「それは、良寛です」という答えが返ってきた。私は驚いたが、やがて納得した。土居さんの良寛と、津田青楓の言葉から浮かび上がる漱石の良寛は重なる。私は、かねてから良寛という人物は近世の出口ではなく近代の入り口に立つ人だと思っているが、漱石が直面して悩んだ「こころ」の二重性を受け入れ、そしてその水準を超えていくための、その入り口というか希望の輝きとして存在しているのが良寛なのではないか、と思うようになった。これは個人的なつぶやきで、インターネットを全然使えない私の〝ツイッター〟である。