活動レポート

山折哲雄 × 安西祐一郎 第4回 「日本社会」と「西洋社会」の決定的な違い


山折座長と対談していただく4人目の有識者には、慶應義塾大学前学長で、現日本学術振興会理事長である安西祐一郎氏を迎えて、4回に分けて日本の教養と知識人について語ります。今回は第4回(最終回)です。 ※対談(その1): 愛国心でも愛郷心でもない、日本人の教養 ※対談(その2): 今の日本人は“情”が欠如している ※対談(その3): 若者に日本の歴史をどう教えるべきか img_5810a870d63076c07de7a59deafe4531320686
安西:私は小中学校で、日本の原風景からの歴史をある程度教えていくべきだと思います。その一方で、日本の若い人たちが自分からそういうことを知りたいと思う環境を作ってくことも大事だと思います。そうでないと本当の血肉になりにくい。 それにはいろいろなやり方があって、例えば外国に出ると、そうした歴史を勉強したくなりますし、中国、韓国の人たちと話をすればむしろ日本について知りたくなります。いわゆるグローバル化と日本人としての教養は、決定的に結びついていると思っています。 山折:これから大国のアメリカや中国と付き合うときに、日本における政治権力の交代のあり方について根本的に知っておく必要があります。私よく言うんですが、明治維新というのは無血革命なんですね。もちろん、戊辰戦争などで犠牲者は出ていますが、フランス革命やロシア革命に比べたら比較になりません。 なぜあんな無血革命が可能だったのか。そのことに注目したのが、イギリスの歴史家のトインビーや、『文明の衝突』で有名なハーバード大学のサミュエル・ハンティントンです。しかし、彼らが持つ疑問に対して、日本の歴史家、思想家ほとんど答えることができていません。 なぜ無血革命が成功したか。その背後にあるものはやっぱり日本の歴史1000年にわたって育んできたある種の日本パターンの平和主義だと思うんですね。戦後60年の歴史がある意味でそれを実証しているとも思う。けれども、そういう文脈で明治維新を分析するということを誰もやらない。これも悲しいことなんですよね。 だから依然として、日本の教育は、戦後の近代史観とマルクス史観に方向づけられたり影響されたりしている。 安西:全くおっしゃる通りだと思います、私は、明治革命、明治維新は、封建制度から近代へというような、ヨーロッパ諸国をそのまま当てはめられるような変化ではない、と理解してきました。やっぱり1000年の歴史のその延長線上に明治維新があったということだと思いますね。 山折:そうですよね。具体的には、平安時代の350年、江戸時代の250年、まさに平安の時代だったわけです。こんな長期にわたる平安の時代を実現した国は世界で日本だけですよね。そういうことに歴史家は興味や関心を持たない。日本の歴史家や政治家が好きなのは、革命、戦国時代ですよ。本当に水準が低い。

諦めることの大切さ

安西:例えば福澤諭吉も近代化の啓蒙家と言われますが、西洋のことを勉強すべきだと言ったのは手段であって、欧米が跋扈する中で、日本が独立していくために必要だという考え方だったわけですね。なんかこうバッと変えようとか、ただ変えることが目的だという考え方は、日本の教養ではないと思います。
安西祐一郎(あんざい・ゆういちろう)  日本学術振興会理事長  1946年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院工学研究科博士課程修了。カーネギーメロン大学人文社会科学部客員助教授、北海道大学文学部助教授を経て、慶應義塾大学理工学部教授。2001~09年慶應義塾長。2011年より現職。専攻は認知科学、情報科学。

安西祐一郎(あんざい・ゆういちろう)
日本学術振興会理事長
1946年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院工学研究科博士課程修了。カーネギーメロン大学人文社会科学部客員助教授、北海道大学文学部助教授を経て、慶應義塾大学理工学部教授。2001~09年慶應義塾長。2011年より現職。専攻は認知科学、情報科学。

山折:福澤諭吉の教養の根本は、私なりの解釈では「一身の独立」ですね。 安西:そうですね。現代は明治のころと似ているような気がします。世界の動きが急速に日本の国内と関係づけられるようになってきたというところが似ています。若い人たちにとってむしろ機会が増えていくという点も似ているように思います。そういうときに、日本には千何百年の歴史があるのだと、血肉にしながらエネルギーを前に向けていくという、そういう教育に何とか変えたいというのが私の思いです。 普通の人たちが本当の意味で良かったなと思える、そういう人生を歩むにはいったいどうしたらいいのかというのは私の一つの命題です。俗世間での幸せと言ってもいいかもしれません。 山折:最近の日本の社会は、いろんな分野で、いろんな選択肢が増えてきて、どれを選んだらいいのかわからない、その不安感が逆にまた増大している。選択肢が多いがゆえに不安が増大するということになっている。選択せずには生きていけないという問題が実は背後にはあるわけです。 選択するということは実は何かをあきらめるということであるわけで、これをまずしっかり教えることから始める以外にないと、私は思っています。ところが我が国の教育現場では、あきらめることはマイナスの生き方だというふうに教えられてきているわけですよね。 安西:そうですね。 山折:教育の場で、これをひっくり返すのは大変なことです。だから、これは家庭の段階からやっていかなければならないのですが。 安西:ええ。むしろ親がこういうふうになりなさい、というケースが多い。 山折:多いですね。選択問題が強制と重なっているわけですね。 安西:例えば高校生が、自分の規範になるような書物を自分で見つけられる、そういう環境になっているか。 山折:われわれの時代は、一日が始まるときに三カ条とか五カ条というのをしばしば暗記させられたものです。これがやがてしっかり身についていく…。 安西:規範をなかなか大人自身が持てない。規範は本当には自分で見つけていくものでしょうが、子どもにとっての規範は誰が教えるのか。 大学生になるときには自分で何かを決めて生きるようにいてほしいのですが、そのためには型が大事になります。でも、その型がなかなか見えなくなってしまっています。それは、一つには先ほどから言われている原風景というか、日本の大地です、大地というのは周りの海も含みます。それに向かって手を合わせたときに正しいかどうかということですね。 山折:教育の部分は、地方分権でいいんじゃないでしょうか。中央官庁である程度コントロールしないといけない部分もあるでしょうが、具体的に規範やマナーをどうするかという問題については、やっぱり地域の風土に根ざした伝統がありますからね。そこからにじみ出るものを、それぞれが選択していく形でいいと思います。
山折哲雄(やまおり・てつお) こころを育む総合フォーラム座長  1931年、サンフランシスコ生まれ。岩 手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩 手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

高校野球の季節になると校歌が聞こえてきますよね。みんな同じようなことで歌っていますけれど、あれでいいんでしょうね。宗教教育や道徳教育という上から目線の言い方はしないほうがいい。そんなものは絶対効果はないですよ。 安西:雑談ですけど、去年、島根に行く機会がありまして、ちょうどその日の晩に、神々が浜に降りてきて会議をするという話を聞きました。それがなかなか面白いなと思いまして。いろいろな神様がおられて、それが一堂に会して議論をするんだという話を急に思い出しました。 山折:まあ多神教の世界ですからね。その寛容さというのかなあ。今度の遷宮の問題でいいますと、あの伊勢の地には、明治までは神仏が祀られていました。伊勢の東北に朝熊山という山があります。これは密教の山でしたし、今でもそうです。だからお伊勢参りをする人は必ず朝熊をかける、と言われていましたね。それが明治以降、がらっと変わってしまうわけです。 安西:インドに行く機会が何度かありましたが、多神教の世界ですのでなかなか奥が深いと思います。中国とはまた違ったとても面白い世界だなと。

アフリカに未来はないと思う

山折:インドの社会では、ご存知のようにカースト制度が根強く活きています。それで、神様の世界もその差別のシステムに左右されています。たとえば、肉を食べる神様と肉を食べない菜食主義の神様とはちゃんと区別している。肉を食べない神様の方が上位なんです。菜食主義の問題なんです。このカースト体制というものが、結局イギリスの植民地支配に抵抗する最後雄の基盤になったということがあります。カースト制度それ自体はもちろん負の問題をたくさん抱えてはいますが、その根っこのところを守ったからこそインドは今日、イギリスの支配を乗り越えて世界最大の民主主義国になることができたとも言えるんですね。 それに対して、アフリカ諸国は西欧に発する植民地支配によって全部それを根こそぎにされていくんですね。イスラム教がキリスト教の国では分断され分割されてしまいました。私は、アフリカには未来はないのではないかと思っています。 日本もグローバリゼーションの大波に飲み込まれて、日本本来の文化と伝統というものを失ってしまうと、アフリカが辿ってきたのと同じ道をたどるかもしれない。そういう不安を持ちます。インドの社会、インドの文明というものを他山の石とすべきだと私は思っているのです。その点では、中国も同じような方向に向かっているようで、危ない。 安西:インドは悠々としていますね。デカン高原に立つと何かそういうしたたかさというものを感じるところがあります。 山折:西洋文明やイスラム文明とずっと戦い続けて、それで生き抜いてきたわけですからね。

実は、他人を信じない日本人

――大地を感じるという意味でも、自然と一緒に育つことは大事でしょうか? 都心では高層ビルが増えて、ずっと高層マンションで育つ若者が増えていますが、田舎で自然と共に育つ期間というものが、大地を感じるために必要でしょうか? 山折:それはそうでしょう。ただ私が言う大地性というのは、安西先生がおっしゃる大地と、もしかすると違うかもしれません。インドのような乾燥地帯の大地と、湿潤地帯の日本列島のような大地では、風土としての生活が違うような気がしますね。 安西:大地というと、なんとなくこう赤茶けた感じがしますが、そういう意味ではなくて、森があって水があって、日本の場合には豊饒な海もあって、それが一色、一つではなくて重なっているというイメージでしょうか。 私は一応理系出身ですが、大学を出るころからだいぶ心理的な問題をいろいろ考えるようになりました。原発の問題にしても何にしても、どういうふうに人と関わるか、組織の中での媚びへつらいから何から何まで、人間としての判断基盤がほぼ抜け落ちてしまったことが、大きな原因だと思います。 心理学の分野に、安心できることと信頼できることはどう違うのか、という研究があります。本人だけでいると安心できる、何も言わなくてもわかるような気がする、という面がある一方、個人主義といわれる国の人々よりもむしろ日本人のほうが他人を信用しないという研究結果もあります。個人主義の国の人たちのほうが他人を信じる。それに対し、一様な背景を持つ人たちが暮らしている場合に他人を信じない傾向があるのではないかということです。 どういう時に人は信じられるか、誰を信じるか、の判断ができることも一つの教養です。特に現代社会ではいろいろな情報が飛び交っている中で、誰の言っていることをどういうふうに信頼でき信用できるかですね。このトレーニングをすることは、教養を身につけていくことと似ているなという気がしますね。

コミュニティを作る2つの条件

山折:私には一種の持論みたいのがあります。それは近代社会の人間観の根本は、「人は疑うべきである」というところにあるのではないかということです。デカルトの言う「われ考える、ゆえにわれあり」は、つまりは「われ疑う、ゆえにわれあり」だと思うんです。これは、あくまで個人的な解釈ではあるんですが、もしも人を疑うことが根本を成しているような社会では、そもそもコミュニティを作ることができませんね。 そこで、その代わりにそれをコントロールするために二つの条件が西洋社会には存在したのではないかと思うようになりました。一つは超越神の存在です。超越的な価値と言ってもいい。その超越的な価値と個人との垂直な関係を軸にして、その疑わずにはいられない個人を内面的にコントロールする。これが第一の条件。 次の第二の条件が契約の精神ではないでしょうか。あの徹底した契約の精神というのは、どう考えても人は疑うべきであるという考え方が前提にあるような気がします。われ疑う、ゆえに我ありの考え方です。この2つの条件があるから、西洋の近代社会は、コミュニティとしても、民族国家としても、成り立っていると私は思うようになりました。 それに対して、日本の場合はどうかというと、日本は多神教の世界ですから、超越的な価値と言うのはありません。それでは、契約の精神があるかというと、歴史家によっては、中世以降、多少はあったという人もいますが、西洋の契約の精神に比べると非常に弱い。

判断基準は“情が動くか”

山折:その2つの条件を欠いて、「人はなお疑うべき存在だ」という規範と人間観を持ち込んだら、国家も民族も成り立ちませんから、そこで、どうしようもなく人間は信じ合わなければいけないという規範を作り出したのではないか、と。そして、信じ合わないといけないという規範の中から、よく言われる日本社会の集団主義というものが出てきた。 この構造はどうも乗り越えることが難しい。けれども、本当のところは、先生がおっしゃったように、もしかすると日本人というのは心の底では他者を疑っているのかもしれない。そして西洋人のほうが、他者を信用しないといけないと思っているのかもしれない。集団主義の方が、個人としての他者を信用しようとしないのかもしれない、ふと、そうも思いました。 そのうえで、西洋社会とどう付き合っていくのか。どうしても理解できない他者とぶつかったら、どうするか。いうのをしばしば思い出す、そういう時に通じ合う入り口は、私の場合は「感ずる」道をみつけるほかはない。情が動くかどうか。 安西:これは万国共通ではないかと思います。文化によって違いはあると思いますが、何か気持ちが動くというか、共感という心の動きは大事にすべきですし、その経験を多く積む事が学びだと思います。 山折:おっしゃるように、これからの若者はどんどん外国に行かないといけないし、行けば必ず何かを得て帰ってきますよね。 安西:外国で一人きりになったとき、帰るところが自分にはある、神話の時代から続く日本の大地がある、ということを実感することが大事なのではないでしょうか。外国に行くのは、英語を学ぶためではなくて、日本人としての教養を本当に自分の判断基準として血肉化するために、いろいろな人と付き合い、いろいろな体験をするのがいちばん大事だと思います。だから外国に行ってもらいたい。 山折:そう思いますね。   (司会・構成:佐々木紀彦、撮影:今井康一)