活動レポート
山折哲雄 × 鷲田清一第1回 日本人の教養と、根深い西洋コンプレックス
- 2013年9月3日
- 有識者対談
山折座長と対談していただく最初の有識者は、鷲田清一先生です。4回に分けて日本の教養の系譜と、西洋の教養との違いを語ります。
外国人から、心の奥底では軽蔑されている
――近年、日本では教養がブームになっていますが、そこで語られるのは、西洋的な教養が中心です。グローバル化が進展する中で、われわれはあらためて、「日本人としての教養」を見直す時期を迎えているのではないかと思います。西洋の猿マネとは異なる、日本らしい教養というのは、どういうものなのでしょうか。 山折:20年近く前に、東京のある経済団体から依頼を受けて講演をしたことがあります。その後の懇親会で、ある日本を代表する企業の会長さんがひとり出てこられて、突然こう言われたのをよく覚えています。 「自分の会社は海外にいろんなかたちで展開しており、従業員の半分以上は外国人になっている。積極的に外国人を幹部に登用しているし、外国人幹部のほとんどは日本の経済力を非常に尊敬している。しかし、心の奥底でどうも軽蔑されているような気がしてならない」 鷲田:それは海外の人が日本人を? 山折:そう。海外の幹部社員から、自分たち日本人が軽蔑されているということです。明治以降、日本人は近代化に成功したけれども、政治、経済、刑法、憲法などあらゆる制度を西洋から学んできました。近代化に役立つほぼすべてのものが、西洋からの模倣です。そういう状況であれば軽蔑されても仕方がない、というのがその会長の主張です。一種のコンプレックスですよね。 最後に、その会長さんが「日本人は、究極的には西洋人になる以外ないのでしょうか」と聞いてきたので、私は「西洋人になれるわけがないでしょう。あなたがおっしゃるように、日本の近代化の大半は模倣ですが、ひとつだけ例外がある」と答えました。 ———その例外とは何でしょうか? 日本人がこれまでつくりだしてきた芸術作品です。芸術の世界だけは、決して西洋にも劣らない。いかなる外国人、西洋の人間たちといえども、軽蔑することはできないはずだと。日本人の伝統的な芸術の中に流れている精神性みたいなもの、つまりは、芸術と精神、芸術と宗教だけはわれわれの誇りになる。 こう話したら、会長さんはしばらく考えて、「よくわかりました」と言っていました。それ以来、私が思っているのは、「日本の知識人やリーダーたちは、日本の伝統文化の中で最も大切なものを忘れている」ということです。そして、ここがおそらく、これからの日本人の教養を考えるうえで、非常に重要な点ではないかと思います。 教養というと、やれカントだ、やれシェークスピアだ、やれゲーテだ、ということになっていますが、これはとんだ誤認のもとです。やはり教養の根幹は、われわれ自身の文化の中にある何ものかですよ。今の日本のリーダー層は、その何ものかに到達できていない。腹の底からエネルギーが湧いてくる経験

山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。
岩手県花巻市で育つ。
宗教学専攻。
東北大学文学部印度哲学科卒業。
駒沢大学助教授、東北大学助教授、
国立歴史民俗博物館教授、
国際日本文化研究センター教授、
同所長などを歴任。
『こころの作法』
『いま、こころを育むとは』など
著書多数
日本の教養には3つのフェーズがある

鷲田清一(わしだ・きよかず)
哲学者
1949年生まれ。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科哲学専攻博士課程修了。関西大学、大阪大学で教授職を務め、現在は大谷大学教授。前大阪大学総長、大阪大学名誉教授。専攻は哲学・倫理学。『京都の平熱――哲学者の都市案内』『<ひと>の現象学』など著書多数
知識化、断片化してしまった日本の教養
山折:そして、戦後の教養というのは、知識としての教養になってしまうわけです。 鷲田:しかもすごく断片化されている。 山折:だから、「本当の知識人になるには専門家にならないといけない、大学の学部では狭い世界のことを深くやらなければならない」というふうになっていく。教養という考え方自体が、細片化、断片化、細分化されてしまって、逆に軽蔑の対象になってしまう。そして結局、教養の有無が、何かを知っているか知っていないかによって測られるようになってしまった。 その話との関連でいうと、私は親戚にひとりだけ秀才がいたんですよ。 鷲田:先生ではなくて? 山折:もちろん私ではない。彼は旧制一高から東大に入って、卒業後は銀行に就職しました。彼の家に遊びに行くと、まず岩波文庫を全部読んだという自慢話から始まる(笑)。岩波文庫を何冊読むかで教養を競っているわけです。 鷲田:私も高校時代までそれをひきずっていました。私が高校のときは、岩波文庫ではなく、岩波新書。それと私が子供のときは、河出書房や新潮社の箱に入った文学全集。高校生のときは、『Nature(ネイチャー)』ですね。 山折:そうした教養は、単に知識が積み重なっていくだけですよ。だけど、それが専門家になるために役立つかというと、そうでもない。大学に入って、学部や大学院で論文を書く場合、そうした教養的な知識を論文の中に詰め込むと、必ず「専門論文には必要ない。削れ」と言われました。 鷲田:つまり、学問自体が細分化してきていますから、邪魔になってしまう。教養的な知識は、素人の談義みたいにとられてしまいます。 山折:広い教養を身に付けて、その果てに学問がある、学問の成熟した姿があるんだという考え方が、学部で断ち切られているわけです。さすがに東京大学だけは、「それはおかしい」という反省が早く働いて、教養学部をつくるわけですが。 (司会・構成:佐々木紀彦、撮影:ヒラオカスタジオ) ※ 続きは次週掲載します