山折座長と対談していただく2人目の有識者は、宗教学者で東京工業大学教授の上田紀行氏です。5回に分けて教養と宗教の関係について語ります。
「サトリ世代」「スクールカースト」と「三無主義」
――今回は、文化人類学者の上田紀行先生をお招きして、山折哲雄先生と主に3つのテーマでお話を伺いたいと考えています。教養、宗教、科学者。宗教は学校で教えるべきものなのか、それとも学校で学ぶようなたぐいの教養ではないとお考えでしょうか。
山折:そうですね。今の若者たちは「サトリ世代」だと最近、よく耳にします。面白い言い方をするなあと思い、いったいどういう悟りの内容なのかを調べてみたら、4項目ぐらいありました。
1項目が「クルマやブランド品なんかを追い求めない」。2項目が「おカネを稼ごうなんて意欲はない」。3項目が「恋愛にものすごく淡泊だ」。これは本当かなと思いますが。4項目が「情報は主にインターネットで得ている」。この4項目の特徴から「サトリ世代」だと言っている。
もうひとつ、面白い現象は、東大大学院生の鈴木翔さんが書いた『教室内(スクール)カースト』(光文社新書)の内容です。
上田:話題になっていますね。
山折:最近の中学・高校の子どもたちは、教室の中でもう序列ができているという。上と下、活発でやる気のある連中と地味な連中。その序列をみんながすんなり受け入れている。まさに「カースト化」だというわけです。
悟りもカーストも何となくインド的なイメージですが、中身はインドとは全然異なる。これは単なるネガティブなメッセージなのか、あるいはそれなりに時代の宗教的な感覚や、若者たちの宗教的認識を反映する現象なのか。
1960年代半ばの「三無主義」を思い出させます。「三無主義」というのは、当時の若者たちの「無感動」「無関心」「無気力」な性質を表したもの。時代も今と非常によく似ていました。あの頃は、経済発展からバブルへと向かっていき、全共闘運動が収束に向かう時期。今のアベノミクスは、少し明るい状況ですが、みんなどこかで信用していないでしょう。いずれは潰れるだろうと私も思っています。
あの「三無主義」と、今の「サトリ世代」や「スクールカースト」という現象を考えると、若者たちの宗教意識というのは半世紀ぐらいで繰り返しているのか、それとも今、新しい状況にあるのか、まず上田さんの話を伺って、先ほどのテーマに少しずつ入っていければと思います。
上田:そもそも教養とは何なのか、その中でのやはり宗教という位置づけになると思います。
鷲田先生と山折先生がお話になったように、日本の伝統的な教養観というのは、旧制高校時代のいわゆるデカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)的なものがあり、田舎から出てきたエリートがデカンショを読みながら、いかに教養というもので自分を武装してエリート然とするか、というところがありました。
しかし、戦後の社会でみんなが大学に行くようになり、そういうものが崩壊していった。ただ、今もう一度、教養というものが必要なのではないかと感じています。私たちが始めたリベラルアーツセンターが東工大に設置されたり、リベラルアーツに人々の関心が集まっているのは、やはり人間の厚みみたいなものがなくなってきたからではないか。
それと、先ほどの山折先生のお話にあったように、自分自身で何か意味を生成していくというか、一人ひとりの主体の中にエロス的なものが欠けてしまっていて、それで都合よくシステムの中に収まっている。そこで過大な負荷もかけずに淡々と生きていって、周りに波風を立てないで生きている。まさに「三無主義」に通じる、ある種のエネルギーレベルの低下みたいなものが、何となく感じられる社会になっているのでしょう。
その中で私は、今、求めれられている教養とは、誰かが与えてくれた意味の体系の中で粛々と生きていくようなあり方ではなく、フリードリヒ・ニーチェが言ったような家畜として生きていく、あるいは既存の牧場の中でモノ言わぬ従順な羊として生きていくようなあり方ではなく、やはり自分自身で新しい価値を生み出していく、あるいは自分自身が意味を創造できる主体になっていける基盤を与えるような教養だという気がします。
そこでの教養とはどういうものか、その中で宗教はどういうふうに取り扱われるべきか、ということでしょう。
教養を身に付けるために最低限、必要な3つの問い
山折:教養を身に付けるためには最低限、3つの問いが必要だと、私は前から言っています。それは「自分とは何か?」「人間とは何か?」、そして「日本人とは何か?」。
山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数
この3つの問いに答えるかたちで教養は養われるし、積み重ねていかなければならないし、それが人生そのものの価値観を生み出していく。
今はその3つの問いがうまくかみ合っていない。問い自体が風化してしまっている。その問いに日本の学校教育が十分、立ち向かっているかというと、学校教育自体がその問いを正面から取り上げようとしているようには思えません。
問題は、その3つの問いのどこから始めるかということです。ここ10年、20年ぐらい、ずっと「自分とは何か?」「自分探し」としばしば言ってきたでしょう。あれほど言っておきながら、自分探しがどれだけ教養の蓄積に、あるいは教養の厚みにつながっていったのか、非常に心もとない。
たとえば尖閣や竹島の問題なんかが出てくると、ひょいっとナショナリズムにいってしまうわけです。「日本人とは何か?」をじっくり考えていないところで論じようとするから、浅はかなナショナリズムになってしまう。
では、「人間とは何か?」を考えているかというと、たとえばソクラテス、プラトン、老子以来の歴史的な宗教的価値観をつくり出してきた伝統にどれだけ関心を持つか、学校教育がそれについてかかわっているか。これもお寒いかぎりだ。
そうすると、この3つの問いがずっと空洞化していっているわけです。それなら、どういう教養が必要かというと、リベラルアーツだという。これも西洋産のパターン化した考え方です。何だ、日本の大学もくだらんことをやっているなと私なんかは思う。大学はリベラルアーツなどという言葉を使わずに、もっと個性的な、内部から湧き出るような言葉を発見しなければいけない。どうですか、上田さん。
上田:最初から手厳しくきましたねえ!(苦笑)
大学の話題が出たので、そちらのテーマを話しますが、この前、ハーバードとMIT、ウェルズリーに行ってきたんです。ウェルズリーはヒラリー・クリントンやマデレーン・オルブライトという2人の女性国務長官を出した女子大。
上田紀行(うえだ・のりゆき)
東京工業大学リベラルアーツセンター教授
文化人類学者、医学博士。
1958年、東京都に生まれる。
東京大学大学院文化人類学専攻博士課程修了。
愛媛大学助教授を経て、東京工業大学大学院
准教授(社会理工学研究科価値システム専攻)。
2012年2月より現職。
『生きる意味』『かけがえのない人間』など
著書多数。
そこで驚いたのが、東工大をはじめとした日本の大学のこれまで行ってきたミッションと、彼らが言っているミッションが違うということ。似ているけれども、すごく違うのです。
日本の理工系大学のミッションは、「社会のお役に立てる科学技術を提供する」。つまり、この社会の役に立つことを目指している。一方、米国の大学は「この社会をよくする」と言っている。つまり、21世紀をよき社会にしていくことを目指している。
では、日本の「社会のお役に立つ」とはどういうことかというと、需要があればいいわけです。社会から求められる技術をわれわれは出そう、社会からよい評価をもらうような製品を出していこう。つまり主体は向こう側にあって、われわれはその需要に応えるんだと。
ところが、たとえばMITが「この社会をよくする」と言ったら、「よいとはいったいどういうことなのか?」を考えなければいけない。彼らは「社会的正義を実現する」みたいなことも言うので、そうすると必然的に、「正義とはいったい何なのか?」を技術者も考えなければいけない。
日本では、今までの大学があまりに社会の役に立ってなかったので、この20年間ぐらい、「とにかく社会のお役に立とう!」という嵐が吹き荒れた。だから、地方大学は町おこしに参画し、県庁と組んでプロジェクトをした。都心部の大学も、社会に有意義な人材を出していくことをものすごく強調する。
しかし、その意味の創造主が向こう側にあって、「そのお役に立ちますよ」と言っているかぎりは教養なんて必要ない。うちの大学の卒業生がどんどん就職すればいい、作った製品が売れてカネが入ってくればいい、ということで結局、二流に成り下がり、「優秀な牧羊をたくさん出していきましょう」という大学になってしまう。
そのビジョンのなさ。やればやるほど、意味を生成する主体から遠ざかっていくという悪循環に陥っている。そのことが米国の大学を見学してよくわかりました。
日本人の教養獲得の基本手段は受信
山折:結局、日本人の教養獲得の基本手段は受信機能なのです。それは1000年、変わっていない。最初は中国文明、その後は西洋文明。戦後、ずっと受信機能だったわけだ。発信機能が依然として弱いのです。発信機能が弱ければ、自ら創造する価値観なんて出てくるわけがない。それが今、おっしゃったことに見事に表れている。
何も東工大だけじゃないよ。日本の大学、全部がそうだ。これは深刻だね。
上田:しかし、そのことが今、問われてしまっている。これまでわれわれ日本人は、いち早く中国、米国、欧州のものを仕入れて、時間差で食べていたわけです。5年先にはやりそうなものを仕入れて、はやってきたところに商品としてパッと出す。われわれ学者は、それを目利きとしてやろうとしていたのですが、そのタイムラグがほとんどなくなってきた。
本来は先見性を持って、次の時代の本当に創造的なものを見つけなければいけないのに、後追いばかりやっていて、実際に儲からなくなってきた。
山折:日本の近代化は全部、向こうの模倣でした。この150年間、政治、経済、法律、すべての制度が西洋の模倣だったから、それに対してどういう独自の価値観を持って戦うのか、そうした姿勢ができていないんでしょうな。
その独自の価値観は何かというと、結局、「日本人とは何か?」にいくんですよ。「自分とは何か?」を発見するためにも、「人間とは何か?」を発見するためにも、どうしても「日本人とは何か?」から出発する以外にない。これが教養を考えていく出発点でしょう。
ところが、それが小・中・高・大学までほとんどできていない。いちばん責任があるのが大学ですよ。受験のせいなんだから。
与えられた問いは解けるが、自分で問いを設定できない
上田:そうですね(笑)。私の世代は、中学・高校で入試に出ない科目も勉強しましたが、今の子たちは入試に出ない科目は最初から切ります。その時間を入試に出る科目に充てたほうが点数がよくなりますから。
その結果、何が生まれるかというと、当然、その科目の内容しか知らない子たちが出てくる。その子たちは、ほかの誰かが与えた問いはエレガントに解けますが、そもそもこの世界で何が問いなのかがわからない。自分で問いを設定することができない。
この問題をどうしても越えなければいけないので、私は宗教と教養にもう一度戻って考えたいのです。
宗教がすごく必要だなと思うのは、ひとつはやはり単なる道具としての人間ではない何ものか、たとえばエロスやタナトスへアクセスしていく術として、宗教はいい意味でも悪い意味でもたいへん優れている。
たとえば、「人間とは何か?」とか「生きているとは何なのか?」「死とは何なのか?」、あるいは「人間の欲望とはいったい何なのか?」「それは肯定されるべきものなのか、否定されるべきものなのか?」。
「いい意味でも悪い意味でも」というのは、その宗教を信じるか信じないか、肯定するか否定するかという葛藤そのものが、自分を深め、そういう何ものかへアクセスしていく入口になる。これが第1点ですね。
第2点は、なぜ、われわれが社会の評価というシステムに盲従しているかですが、それは根源的な安心感や安寧感がないためでしょう。
「すべてを失っても、この世の中で支えがあるんだ」とか、「何ものかによって個を継承していて、それを次代に流していく私は入れ物なのだ」とか、「どんなに失敗してボロボロになっても、どこかで誰かが私を見ている」とか。
それがないために、この社会の中での評価のみに縛りつけられ、つねに人の目を気にしている。こういう行為をすればあなたはいい評価で落ちこぼれにならないし、スクールカーストの中でも排除されずに教室の中で居場所が与えられるんだよ、となる。世間というものにがんじがらめになっていく。
この世の中に支えがあれば大きな自由を獲得する。その支えの根本に、宗教があるのではないかと考えています。
(司会:佐々木紀彦、構成:上田真緒、撮影:ヒラオカスタジオ)
※ 続きは次週掲載します