活動レポート
山折哲雄 × 上田紀行第2回 日本人の「心イズム」とは何か?
- 2013年10月16日
- 有識者対談
山折座長と対談していただく2人目の有識者は、宗教学者で東京工業大学教授の上田紀行氏です。5回に分けて教養と宗教の関係について語ります。今回は第2回です。
※ 対談(その1):教養の出発点は、「日本人とは何か」
宗教的世界から文学的世界まで、心、心、心と言い続けてきた。こんな文明文化はほかの国にありませんよ。これはいったい何なのか。
私が日文研(国際日本文化研究センター)にいた頃、外国人が日本文化を研究するために大勢来ていました。その中に心の世界を研究しようと考えた研究者がいた。彼は「『心』は英語にならない。マインドでもスピリットでもない、ハートでもゴーストでもない。そのすべてを含んだものが『心』だ」と言い、結 局、あきらめて、「『心イズム』にしました」と言っていた。この「心イズム」は、国際雑誌の宗教論文の中で少しずつ定着し始めています。
この日本人の心という宗教言語に対する関心はいったい何に由来するのか。やっぱり内面的なものへの関心に由来し、それは超越的なものに対する関心の希薄さと対応している。一神教的世界観と多神教的世界観の違いかもしれない。日本は多神教的世界観でやってきました。
これを学校教育で客観的にメリット、デメリットも含めてきちんと教えているかというと、さぼっているわけです。それでは「自分とは何か?」がわかるわけがないし、「日本人とは何か?」もわからない。私はそれを言い続けているのですが、誰も聞いてくれない。今、「東洋経済オンライン」が初めて取り上げてくれようとしている。
心理学が人間をロボットのように見て、心は周囲と遮断され、あたかもそこに孤立してあるかのように扱う。心理学者が何かいろいろな質問をして、「この人の心の状態はこうである。したがって、こういうふうに悩みを解決して、ストレスにも対処し、ベストな状態に調整して、ちゃんと世の中で戦えるようにし ましょう」みたいな感じ。
そういうふうに扱われてしまっている心と、本当にわれわれの中で形にならないような形で保持している心との乖離が、そうとう進んでいる気がしてなら ない。たとえば学校や職場でも、そういう形にならないような心というものをなるべく見せずに、成形された心をバーンと見せていくということがある。
某大企業に勤めている私の知り合いが、「成果主義が導入された途端に、会社の雰囲気が非常に明るくなった」と言うんです。
山折:ほう?
上田:なぜかというと、昔は取引先の人に「書類が間違っている!」と怒られて落ち込むヤツがいると、同僚が「オレも週末、出社するから手伝ってやるよ」と慰めて、必死にやり直したりした。職場の至るところで、怒られたり嘆き悲しんだりという光景が見られたんですが、成果主義になってから、自分の失敗を誰にも語らなく なって、代わりに「今日は1億の契約が取れちゃってさー!」と、ニコニコ笑いながら自分の成果を吹聴する人間ばっかりになった。だから職場の雰囲気が明るくなったと。
それで、私の知り合いはその職場にいると、吐き気がするようなってしまった。しかし、成形された立派な心をバーンと押し出していかなければならない。私は心というのは嘆いたり悲しんだりうめいたりするのが自然だと思う。
山折:そうそう。
上田:お能を見ても、妖怪になって夜な夜な旅人を襲うような化け物が出てくる。その心の内を旅の僧が聞いてあげる。聞いてあげることによって、天上に昇っていく。そういうのが心であって、つねにピンシャンしているものではない。
にもかかわらず、成形してベストな状態に調整すれば、誰に見せても恥ずかしくないような心になれると考える。その人生観の浅さはいかばかりか(笑)。
ユング的に言えば、それをやればやるほど影の部分が増大していって、いろいろな問題が起きてくる。人間の体を痛めつけるという意味でも起きてくるし、社会的にも闇が広がっていく。
日本の歴史上、最も重要な宗教的言語は「心」
――前回の対談では、スクールカーストなどの問題を取り上げながら、宗教の必要性について語っていただきました。 山折:私は日本の歴史の中で、最も重要な宗教的言語を選ぶとすれば、「心」だと思う。これはもう宗教的言語であると同時に、今、現代日本の社会においては、重要な精神原理にまでなっている。漠然とそういうかたちで支持されてきた言葉だと思います。 考えてみると、「心」という言葉を英語やドイツ語、フランス語に翻訳しようとすると、日本人が「心」という宗教的言語に求めているイメージが、ほかの国の言葉にはならないことがよくわかる。これは独特の言葉ですよ。 とにかく戦後を考えても、われわれはずっと「心の時代」「心の時代」と言い続けてきた。文科省なんて文部省の時代から、凶悪な事件が起こると必ず 「心のナントカ委員会」を設置する。そして、ああでもない、こうでもないと同じような議論をずっとやっている。出てくるのは決まって心理学者だ。 上田:あと教育学者。 山折:宗教家なんてまず呼ばれない(笑)。これもひとつの大問題ですよ。もう少し歴史をさかのぼると、「古事記」「日本書紀」の世界では「清き明き心」と。もうあの時代から「心」と言っているわけだ。 中国文明の影響を受けて、最澄が「道心」と言っている。「道を求める心」、これも心だ。今の天台宗では重要なキーワードになっている。空海は何を言ったか。「十住心論」と言っている。人間の心は動物の段階から高められて、最後は真言密教までで10段階あると。 中世になると、法然、親鸞は「二種深信」と言った。これは2つの宗教的に深い心のことを言っている。道元は「身心脱落」。日蓮は「観心本尊抄」と、「心を観なければいかん」と言っている。 ずっと心、心、心の伝統が続いて、15世紀になって世阿弥は「初心忘るべからず」と言った。日本人は、結婚式でたいてい誰かが言っているよなあ。 上田:ハハハ。 山折:世阿弥は、心に対する日本人独特の感覚を芸術言語にした第一の人です。以後、「心技体」とか「無心」と言うようになった。これがずっと続いていって、最後は夏目漱石が「則天去私」と。この「去私」は「無私」ですよ。私を捨てる。それから小林秀雄は「無私の精神」と言った。この「無私」は結局は「無心」のことです。
山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数
教養を積むことによって心が成熟する
上田:アハハ ハハ。だけど、その心について日本人は二枚舌ですよね。たとえば「ものすごく勉強ができて心のない子と、真心はあるけれど勉強はあまりできない子、さて、あなたの子どもはどっちがいいでしょうか?」と聞くと、表面上は「そりゃあ真心のある子がいい」と答えますが、はたしてどうなのか……。 先生は、まさに綿々と続く心の内容が変化してきているとお考えなのでしょうか。それとも日本人の心は変わっていないが、心への注目の仕方が変化してきているとお考えですか。 山折:時代時代によって解釈が違うと思いますが、ずっと一貫しているのは、心は成長する、成熟するという考え方。そこで教育に意味がでてくるわけです。教養を積むことによって、心が成熟する。この考え方は1000年の間、変わらないと思う。 しかし、心理学ではそこにあまり注目しない。むしろ人間の心はいろんなものにとらわれ、執着する。心は我につながって、その間の諸問題を精神分析に 回さなければいけない。その我の問題との付き合いに失敗するとウツになる、とこう考える。それで心理学者や精神科医が登場する。発言しすぎだよなあ。何かというと、香山リカさんが出てくる。 上田:アハハハハ。 山折:香山リカさん、嫌いじゃないですよ(笑)。なかなかいい人です。いい人ですが、あれでみんなわかったような気にさせられちゃうのが問題。何でもかんでも香山さんを出させるメディアの責任も非常に大きい。 文科省の審議会でも、心理学者がずらっと並んでいて、外国の最新の心理学理論を1時間、延々としゃべる。新しい理論を真っ先に紹介して、自分の学問的業績にするわけだ。社会の「心理学化」と「経済学化」が2大悪者
上田:社会の心理学化というのは、もうこの20~30年くらい大きな問題になっていますね。社会の心理学化と、社会の経済学化の2つ。こんなこと言っちゃいけないですが、ある種、教養が平板化している2大悪者でもある。
上田紀行(うえだ・のりゆき)
東京工業大学リベラルアーツセンター教授
文化人類学者、医学博士。1958年、東京都に生まれる。東京大学大学院文化人類学専攻博士課程修了。愛媛大学助教授を経て、東京工業大学大学院准教授(社会理工学研究科価値システム専攻)。2012年2月より現職。『生きる意味』『かけがえのない人間』など著書多数。