山折座長と対談していただく2人目の有識者は、宗教学者で東京工業大学教授の上田紀行氏です。5回に分けて教養と宗教の関係について語ります。今回は第4回です。
※ 対談(その1):
教養の出発点は、「日本人とは何か」
※ 対談(その2):
日本人の「心イズム」とは何か?
※ 対談(その3):
西洋に深い影響を与えた、日本人リーダー
科学技術の世界に宗教界が何を言うかが、問われる
山折:やっぱり今、科学技術が非常に発達してしまった時代だから、その科学技術の世界に対して宗教界が何を言うか、宗教者が何を言うかがものすごく問われている。
私はよく科学者に問いを突きつけるんです。いやらしい問いを。
私は生命科学の最先端の分野で話題になっている遺伝子というものを、一度も実感したことがない。生命体としては存在を実感しない。しかし、その存在は確実に実証されている。それに対して、たとえば本を読んで感動するとか、スポーツ選手のすごい演技を見て感動するとか、そういう霊的な体験は実感できる。しかし、その霊的なものの存在は証明することはできない。
それで科学者に聞くんです。「あなた、遺伝子を実感できますか?」と。すると半分の科学者は、「実感できる」と言う。だけどこれはちょっと強弁している感じだな。私はあんまり信用していない。宗教者はこの実感のレベルで、科学に対してモノを言わなければならない。
たとえば、「クオーク(素粒子)は色がついているから色でイメージできる」と科学者は言う。色で実感しているのか、実感していると自分に説明しているのか。しかし、半分の科学者は「実感できない」と言う。私と同じですよ。
要するに、実感できないものを研究して、しかも人間の命を左右するたいへんな発見をしていて、いろいろな薬までつくったりしている。それは科学者の倫理的な責任とどうかかわるのか。もっともっと宗教者は追及しなければならない問題です。しかし、ほとんど出てきません。
「お天道様が見ている」という世界視線の感覚
上田:私も東工大で必ず年に1回、学生にいやがらせの質問をするのです。
「この中で宗教を信じている人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。クリスチャンとして洗礼を受けている子や創価学会の子は手を挙げる。でも、みんなにヘンなヤツだと思われるから、挙げない子もいると思うんですね。
上田紀行(うえだ・のりゆき)
東京工業大学リベラルアーツセンター教授
文化人類学者、医学博士。
1958年、東京都に生まれる。
東京大学大学院文化人類学専攻博士課程修了。
愛媛大学助教授を経て、東京工業大学大学院
准教授(社会理工学研究科価値システム専攻)。
2012年2月より現職。
『生きる意味』『かけがえのない人間』など
著書多数。
「じゃあ、何も信じてない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。「その中で初詣に行ったことのある人」と言うと、手を挙げる。「その中でお守りを持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。「じゃあ、あなたたち、宗教を信じていないのなら、ここにハサミがあるから、そのお守りをズタズタに切って」と言うのです(笑)。
「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。「じゃあ、切れよ」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。
山折:ははは。
上田:宗教的な感覚は持っているが、それは宗教ではなくて、単なる習慣としてやっているのだと考えている、その二枚舌。そこらへんから攻めていく余地はまだあると思うんですよね。やっぱりどんな子でも、家でエロ本を見るときは仏壇を閉めるというから(笑)。
山折:それ面白いな。初めて聞いた(笑)。
上田:そこに遺影とか位牌とかあるのに、その前でエロ本やエロビデオは見られない。やっぱり何となくあっちの世界から見られている感じがあるんですよ。
山折:身を慎むという感覚だな。
上田:向こうから何か見られている、そういう世界視線がある。「お天道様が見ている」という感覚、先生の世代はありますよね。
山折:もちろんあるよ。
上田:私の世代もまだあります。今の子たちはさすがに「お天道様が見ている」という感覚はなさそうですが、何かに見られている感覚はやっぱりあると思う。
ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。日本人の恥というのは、人の目だけではなくて、お天道様や御先祖様、そういう大きな世界からの視線の中での恥なのですね。
山折:そうそう。
上田:単にヘンなことをして、人に見られて恥ずかしいというのではなくて、ご先祖様から生をいただいている私としたことが、こんなバカなことをしてしまって恥ずかしい。つまり、誰も見ていないけれども、世界視線からは見られていて恥ずかしいことをしてしまったという、より大きな恥の感覚がある。
それがどんどん縮小していって、経済人や政治家までどんどん縮小していって、また団塊の世代というヤツらが縮小していった(笑)。
山折:はっはっは。
上田:団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。要するに、多数派につくことが正義。向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。
団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。
教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。
西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。「感じる宗教」なのです。
山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。
宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。
駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館
教授、国際日本文化研究センター教授、
同所長などを歴任。
『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など
著書多数
「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。
何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。それを気配として感じる。そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。気配の文化と言っていいかもしれない。
それが日本人の宗教感覚、宗教意識なんだ。と、本当はこういう教え方をしなければならない。それはもうすでに鈴木大拙が『日本的霊性』(岩波文庫)で言っている。
しかし、一神教的な宗教観念が先にポーンと出てくるから、それ以外は全部おかしいということになってしまう。やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。ここで教養が出てくるんだな。
浄土真宗の果たした意味は何か
上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。
それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。
「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。
「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。
まさにそこで正義が問われないかたちでの、ある種の信心の仕方に丸め込まれている。その欺瞞性もやっぱり見逃すことはできないのではないか。
ここで、あんまり浄土真宗だけの話をすると問題が起きますが、先生は浄土真宗について、そうとう、物議をかもす本を出しているので(笑)、この日本で浄土真宗の果たした意味はいったい何なのかをこっそり伺ってみたい。
日本の治安のよさは二大教団の役割が大きい
山折:今、おっしゃったのは重要な問題ですよ。日本の宗教全体を見ると、本願寺教団と創価学会教団がものすごく大きな影響を与えている。対内的にも対外的にもね。信者数も非常に多い。
この2つに共通するものは何か。一方は一向一揆、一方は法華一揆という宗教戦争を、歴史の上で体験していること。そういう点では、教義なり伝統の中に過激な思想を含み込んでいる。
ところが、過激な宗教行動に出ると、必ず社会的な圧力を受けるので、戦略としてそれをマイルドなものにずっとしてきている。だけど、ときどき噴出するわけです。
本願寺教団の「靖国反対」なんていうのは、一部の人間がしょっちゅうやっている。またかというようなものでね。創価学会教団の「国立戒壇」は、今は引っ込めているが、何かというと噴出する。
そういう根を持った、宗教戦争の記憶を持った二大宗教教団。これは絶対に手を握らない。ほかの中小の宗教教団とも手を握らないという不思議な関係になっている。
それが全体として、どういう効果を日本の社会に与えているか。安定させる効果を担っていると私は思いますね。しかも、創価学会は国際社会では日本の宗教としていちばん知られているのに、国内的には無関心です。ほとんど手を触れない。それが微妙な調和を保っている。
日本の治安のよさは、この二大教団が非常に大きな役割を果たしていると思っています。単に警察が優れているからではない。しかし、それは誰も言わない。批評家も政治学者も言わない。
上田:確かにそうですね。都会で暴動が起こってもおかしくないような創価学会の層に対して、あれだけ昇華させて、お題目を唱えて、なおかつ物欲を否定せず、そしてアイデンティティも与え、仲間も与えていくというね。しかし浄土真宗と創価学会を並べるというのは驚きました。創価学会と似ているといったら、浄土真宗の人たちは怒っちゃうでしょうけどねえ。
山折:過激化するとどうなるかもわかっている。それを抑え込む技術も心得ている。そういう見方を誰もしないんだ。宗教学者も人類学者も研究しない。この二つの大教団は比較して研究すべきですよ。
上田:なるほど、そもそも抑え込む技術なんですね。本願寺教団が「他力」「他力」と言って、「他力本願」を「人任せ」と誤解されるのはいかん、それは阿弥陀さんの力だから、と言いますが、あれだけ「他力」を曲解して人々の行動の契機を削ぐ、みたいなことを大規模にやってきたわけだから、人々が「他力本願」を誤解して当然だろうと私は思います。当たり前じゃないですか、ねえ(笑)。
山折:みんなが「他力」を誤解することによって、本願寺教団を温かく包み込んでしまうというところがある。あれ、「悪人正機」(悪人こそ救われる)だったら誰も認めませんよ。「善人正機」なんだよ。やっぱり。「善人正機」で大衆化していくわけだからね。「いい人間になりなさい、いい人間になりなさい」と言っているんだ、現実は。
そして「おかげさま」「おかげさま」、「感謝」「感謝」と言って教えこんでいる。かつての宗教一揆のとんがった思想なんて、もう誰も継承していませんよね。だけど記憶にはある。創価学会も同じ。
まあ、基本線は日本の社会を安定させる二大勢力。私の中ではそういう認識だな。
上田:仏教って本来、そんなに安定させるものではないでしょう。普段、気がついてはいけないことに気がつかせちゃうものですから。
山折:それは13世紀ですよ。13世紀の宗教者は、わが国における軸の思想を形作った。これから日本が国際的に何か存在感を強化するうえで何が必要かといったら、やっぱり13世紀なんです。自信や価値観の源泉みたいなものは、あそこにしかない。でも誰も気がついていない。これは悲劇的です。
西洋人は知っていますよ。ソクラテス、プラトン以来の伝統がいかに重要かということを。ところが日本人はそれがない。これがやっぱり教養の重大な質の違いでしょうね。
(司会:佐々木紀彦、構成:上田真緒、撮影:ヒラオカスタジオ)
※ 続きは次週掲載します