山折座長と対談していただく3人目の有識者には、『教養主義の没落』などの著書がある竹内洋・京都大学名誉教授を迎え、3回に分けて日本の教養と知識人について語ります。今回は第2回です。
※ 対談(その1):
日本の知識人は、なぜ「日本回帰」するのか
「左」の力はなくなったのか?
山折:竹内さんは、読売・吉野作造賞を受賞した『革新幻想の戦後史』の中で、戦後の左翼的雰囲気と、進歩的知識人について描いています。雑誌に連載している段階から、批判もあったと思うのですが、実際はいかがでしたか?
竹内:最初は、左のほうから批判がたくさん来ると思っていましたが、以外となかったですね。ただ、酒の席で悪口を言われていることは、何となくわかりました。特に東大教育学部の流れの人たちが、苦々しく思っていると聞いたことがあります。
今の時代に、もう左の力はなくなったと言えなくもないですが、ある意味、かえってうっすらとした、革新の感情はあるような気がします。
山折:左の反発が弱かった背景には、時代の変化もあるのでしょうが、やはり先生の論文に説得力があったということでしょうね。
竹内:というより、日本の知識人の場合は、反論せずに無視するわけですよ。吉本隆明のアカデミズム批判に対する反応と同じです。戦わないというか、シカトしてしまうわけです。
山折:その傾向は非常に強いと思います。ただ、敗戦直後には、福田恆存の平和論など、そうとうの論争をやっています。人間の思想と教養を考える場合に、論争がそこまで衰弱して、シカトで終わっているとしたら、ちょっと心配です。
竹内:かつては論争もありましたが、今は、同じ雑誌の中での論争はほとんどないのではないでしょうか。
先ほど話に出た福田恆存が、1954年に『中央公論』で「平和論の進め方についての疑問」を書いたときは、その反論が翌月ぐらいに出て、さらに福田が反論を書きました。
そのときの『中央公論』の部数を見ると、福田が書いたり反論したりするときも多少は部数が上がっていますが、むしろ福田を批判する論文が載ったときのほうが売れているんですよ。だから昭和30年代というのは、そういう時代だったのですね。
山折:それは面白いですね。面白いというか、それだけ福田の進歩派批判の論文を掲載するのは、勇気が必要なことだったのでしょう。
竹内:そうです。当時の編集長の英断で、福田の論文を載せたそうです。ただし、その論文の紹介文には、当時の進歩派を非常に気遣うような、言い訳がましい文章が載っていました。大勢とは違うこういう意見も読んで考えなければいけない、と。
山折:論争がない日本の論壇とはいったい何か。それを考えさせられるエピソードですね。
山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。
宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。
駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、
国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。
『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数
竹内:ええ、論争はないですね。
山折:学会でも同じです。
竹内:ただ、飲み屋へ行くと論争があるんですよ(笑)。
山折:本当に情けない話ですな。
竹内:教授会もそうです。教授会では議論はあまり行われず、終わってから飲み屋に行って、「あれはこうだったよな」と始まる。日本の場合、公共圏は飲み屋のほうにあるのではないですか。市民的公共圏が成り立ちにくい社会ですね。まあ、今の若い世代は、これまでとはちょっと変わっていると思いますが。
批判には2つのタイプがある
山折:私は以前から、論争には批評、批判が必要だと言ってきました。そこで、批判とはどういうものかを考えたことがあって、具体的には、「小林秀雄流の批判」と「鶴見俊輔流の批判」の2つに行き着きました。
これは私の独断と偏見が混じっているかもしれませんが、小林秀雄という人は、いろんな批評の戦略を持っていても、共通するところがあります。それは、批評対象の最も優れたところを選び出して褒めていくことです。これが小林流批評の極意だったのではないでしょうか。対象が、ゴッホであろうとモーツアルトであろうと、志賀直哉であろうと、みんなそうです。
やっぱり、批評の場合、「いかに褒めるか」は非常に難しい問題です。ただ最近は、浅いレベルで、美しく褒めることに慣れてしまっているから、うまく褒めることで深みのにじみ出るような批評があまりないでしょう。
竹内:確かに、褒めるのは難しいですね。それこそ、さっきの飲み屋コミュニケーションだと、何かを褒めても場が盛り上がらない。いちばん安きは悪口です。悪口だとみんな盛り上がる。
私が論壇の問題だと思うのは、悪口と極論です。今の論壇は、極端競争みたいになってしまって、右でも左でもとにかく極端なことを言えばいいという風潮になっています。褒めるということは本当に難しいですよね。
山折:もう一方の鶴見俊輔流批判ですが、これは鶴見さんが思想科学研究会の機関紙で言っていた話です。
鶴見さんは、「批評するには、まず大刀を自分の背中から突き刺す。すると、腹から切っ先が出るので、その切っ先で相手を刺せ」という意味のことを言っています。つまり、まず他人を刺す前に、自分自身の背中を刺せということです。これこそが、批評の方式としては王道だという気がします。
その点で、鶴見俊輔という知識人は本物だと思いましたね。ただ、この小林秀雄流と鶴見俊輔流の2つの批評のスタイルが、今日の論壇から失われています。
竹内:教養というもの自体が、自己批評があるか、自分を見つめる力があるか、自省があるか、自己中の反対がどれだけあるか、ということだろうと思います。
山折:自己批判を失った知識や哲学は、単なる知識にすぎないということですね。
竹内洋(たけうち・よう)
1942年新潟県生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、関西大学人間健康学部教授、京都大学名誉教授。専攻は歴史社会学、教育社会学。著書に『教養主義の没落』『革新幻想の戦後史』などがある
竹内:そうですね。私は時々、「邪魔をする教養」と「ひけらかす教養」という言い方をします。「ひけらかす教養」というのは、今、先生が言ったように、知識によって知らない人に対し象徴的暴力を与えるような感じです。
もう一方の「邪魔をする教養」は、自己批評というか、最近まではわりと使われていた言葉です。ちょっと皮肉的な意味もあったかもしれませんが、「教養が邪魔してできない」という言葉がありましたよね。だから「邪魔をする教養」というのは、いいのではないかと思います。
山折:自己を抑えるために。
竹内:そうですね。先ほど話に出た福田恆存が、教養について面白いことを書いています。
要するに、教養というと何だか自省ばかりで、自己主張があんまりないような印象があるけれども、決してそうではない。では、教養のある人の自己主張は何かと言うと、ユーモアだと言うんですね。それこそ机をたたいて正義を主張しても相手は引くだけだから、ユーモアこそが自己主張になっていくと。
私はこの意見には「なるほどな」と思いました。だから「邪魔をする教養」にプラスしてユーモアがあるのが、いちばんいいのかなと思ったことがあります。
山折:竹内さんのお話はいつもユーモアがありますね(笑)。
竹内:それは、大阪の大学で長くやっているとそうなりますよ。
山折:本当にそのとおり。
竹内:大阪の場合、普段の家庭の会話でも、何かオチを言わないといけません。うちの家庭でも、子供から「お母さんの話は長いんだけど、オチがない」と言われてますから(笑)。
山折:なるほど。笑いをとらないといけないと。
竹内:誰かと話したときに、東大の先生と京大の先生は何か違うと言っていました。東大の先生は講演して笑いがあると「今日、僕はおかしいことを言ったかな」と言って、京大の先生は「今日は笑いが少なくて失敗だ」と言うそうです。
山折:河合隼雄さんがよく言っていましたが、講演をするときに、日本人は最初に言い訳をするのに対し、外国人はまず何か笑わせる。
竹内:そうですね。
山折:日本的ユーモア、あるいは、伝統的なユーモアのひとつは、川柳だと思います。ただ川柳は、大衆系文学の中にひとくくりにされてしまって、文化、政治、社会を語る、いわゆる論壇的な世界とは切り離れてしまっている。あれはちょっとおかしいですよ。
短歌や俳句や川柳といったものを、特別の枠の中に閉じ込めるのをやめないといけません。先ほど話した「大衆の原像」のようなものと、大文字で書かれる論壇的なテーマとを融合させるような紙面づくり、教養のありどころを示すべきです。
今は、大衆文学、純文学というふうに全部くくっているわけですが、そんな簡単に割り切れるものではありません。そのことに今の新聞が気づいてないような気がします。
竹内:総合雑誌もあるときまでは、短歌や俳句や漢詩を載せていましたよね。しかし、あるときから、なくなりました。「短歌や俳句や漢詩は論壇とは関係ない」という考えが出てきたのかもしれません。
山折:だからジャンルの細分化、既得権化というのは、知的なものを衰弱させていくんです。
竹内:ああ、そうですね。
山折:たとえば村上春樹の作品はあれだけ大きな話題になりますが、なぜあんなに人気があるのか、本当に読まれているのか、どんな読まれ方をしているのか、それをきちんと議論してほしい。あれは、文学現象ならぬ社会現象、単なる出版社の戦略だといういう声もありますが、それでは議論が深まっていきません。
竹内:分野を区分けすると、知的な生命が衰弱するという典型例が、学者の学会です。既得権と官僚知みたいになってしまって、何も面白くない。今の学会の論文は減点法で書いているので、とにかく載ればいいというだけの話です。
ネットに新しい論壇は生まれるのか
――論争という意味では、インターネットという空間が、論争を活発にするという期待がありましたが、今はあまりそういう状況になっていません。今後、インターネットで新しい論壇が生まれる可能性はあるでしょうか。
竹内:ネット論壇はたまに見ますが、極論を言う人が多いでしょう。刺激閾値をどんどんあげていく。だから普通の日本人の感覚とは違う人たちですね。血が騒いで右でも左でもどちらでも大声で言いたいという感じではないですか。日比谷焼き討ち事件に参集するような群衆ですね。2チャンネルにしても匿名ですから、あれは石を投げる感覚でしょう。私は、ツイッターは野次だと思っています。だって120字で何かインパクトあることを言うわけですから。
山折:私はツイッターは全然、見たことはないけれど、あれは愚痴ではないの?
竹内:愚痴とやじです。一方でフェイスブックは、自慢メディアになっています。ブログもだいたい自慢メディアですね。
(構成:佐々木紀彦、撮影:ヒラオカスタジオ)
※ 続きは次週掲載します