活動レポート
山折哲雄 × 竹内洋第3回 リスクと犠牲を教えない、日本のエリート教育
- 2013年12月18日
- 有識者対談
山折座長と対談していただく3人目の有識者には、『教養主義の没落』などの著書がある竹内洋・京都大学名誉教授を迎え、3回に分けて日本の教養と知識人について語ります。今回は第3回[最終回]です。
※ 対談(その1):日本の知識人は、なぜ「日本回帰」するのか
※ 対談(その2):論争がシカトで終わる、情けない日本の論壇
山折:私は何度となくインドに行きましたが、最初にインドに行ったときにびっくりしたのは、においです。それまで視覚と聴覚で作り上げていたインドのイメージが、一挙にガタガタに崩れました。日本でインド哲学を学ぶ場合、テキストばかりを読んでいるので、その視覚を通した知識としてのインドのイメージばかりが出来上がる。そして現地を訪れて、嗅覚の世界に初めて直面したわけです。 そのインド体験が、ずっと尾を引いています。視覚を通して蓄積された教養、知識というものがいかに危ういか、脆弱なものか、思い知らされたわけです。インドが過酷な社会的環境の世界だったから、という理由もありますが、本質的にはヨーロッパだって同じだと思います。その社会が持っている歴史的なにおいというのはありますから。 ですから、視覚や聴覚によって得た知識を、嗅覚や触覚といった、もっと生命的な、生物的な感覚によって見直すということを繰り返さないと、単なる観念的な知識をもって満足する人間になってしまう。近代的な日本の知識人の持つ教養の頼りなさというのは、きっとその辺に関係していますよ。旧制高校の教養がしばしば問題視されるのも、結局、視覚や聴覚のレベルで終わった知識だったからでしょう。 竹内:かつて私は、イギリスのパブリックスクールについて調べたことがあります。最初は、現地の写真は見ているけれども、実物は見ていないという状況です。すると、どんどん美化するんですね。しかし、実際にイギリスに行って、現実に寮を見たり、写真には載っていない鞭打ちの部屋を見たりすると、印象が変わりました。 活字だけでヨーロッパを学んだ人は、非常に美化する傾向があります。丸山真男さんも、実際に欧米に行ったのは晩年ですよね。そうすると、頭でヨーロッパ像を作り上げて美化してしまうのではないですか。 山折:そうですよね。美化と完全化。 竹内:そういう意味では、戦後の大衆レベルでも、海外旅行というのは、ずいぶん日本人の海外に対する気持ちを変えました。ものすごく大きい体験知だと思います。海外に対するコンプレックスもあまりなくなりましたよね。 山折:海外にはできるだけ若いときに行ったほうがいい。「今のグローバリゼーションの時代に、どう若者を育てたらいいのでしょうか」とよく聞かれますが、まずはいちばん厳しいインドやアフリカに修学旅行で行ったらいいと思っているんですよ。 竹内:それはいい案だと思います。ただ実際には、豊かで快適なところに行っています。今の日本社会は事なかれの官僚制化していますから、先生も危険のあるところに行かせるのが嫌なのでしょう。 山折:親も事故を恐れて。 竹内:そうですね。 山折:だからやっぱり、どうしようもないところまで来ていますよね。なにか打開策はありませんか? 竹内:私の大学時代は、「官僚制化」というのが社会学のメインテーマで、マックス・ウェーバーを読み込みました。今の日本は、ウェーバーの言う典型的な官僚制化社会になっています。今こそ「官僚制化とはどういうことなのか」を考えたほうがいい。 山折:今の日本の官僚制化は、正当な発展のかたちなのでしょうか? それとも日本的なスタイルなのでしょうか? 竹内:私は日本的なものが入って、変なかたちになっていると思いますよね。 「リスクは絶対ゼロにする」というのは、ちょっとありえない発想です。大学時代に、物理学者の書いた倫理学の本を読んだのですが、その本では、「確率論的に絶対ゼロということは、交通事故でも何でもありえないのだから、何%ぐらいを超えたら大問題と設定しなさい」と書いていました。今は、皆が「確率ゼロはありえない」と思いながらも、「絶対、再発させてはならない」と言いますよね。あれは、何なのですかね。 山折:100%の安全安心などないことは、誰でもわかることですが、言うときはそう言うんですよね。だから危機的な問題を議論するときに、いつも他人事です。わが事ではないのです。かつては、わが事になればそんなことは言えない、という常識的な感覚がありました。それが本当の教養ですよ。それがないから、いつも他人事になってしまう。 竹内:なるほど。 山折:メディアがそうです。もう社説の論調なんか典型ではありませんか。 竹内:何というか、日本型ポリティカルコレクトネス(政治的公正)みたいなものが充満しています。 山折:そうそう。
竹内:凶悪事件が起きると、必ずコメントで「なんでこの犯人が犯罪行為に至ったか」を解説しますよね。そういうふうに、何でもかんでもわかろうとする態度も、リスクをゼロにする発想と似ています。 山折:そうですね。かなりの程度まで人間は理解可能だという、社会科学的な考え方です。 竹内:何でもかんでもわかろうとするのは、おそれ多いことですよ。これこそヒューブリスというか、人間の驕慢が極まっているのではないかと思いますけど。 山折:そうですね。先ほどのリスクの問題で言いますと、私は今、京都の堀川高校の学校運営委員をしています。 ちょうど今、文科省が日本全国の高校をスーパーサイエンスハイスクールに指定していて、堀川高校もそのひとつです。その一環で、堀川高校は、いろんな科学教育をやっています。その際に、国際標準という基準があって、それに近づくために目標を立てるわけです。 その国際標準と日本的な標準には、ものすごく落差があることに気付きました。たとえば、ボランティアという言葉ひとつとっても、意味が違います。国際標準では、わが身を削って、時間も削り、おカネも出し、場合によっては家族を犠牲にして、何らかの奉仕をすることがボランティアということの意味です。だから、リーダー教育、エリート教育というのは、いかに自己を犠牲にするかということが基本になって、それがボランティアリズムが基本となります。 ところがどうも日本のボランティアは、永続的にやるという考え方ではなくて、できるだけ自分を守って、自分の領域を守って、その余力でサービスをするという傾向が強い。ライオンズクラブもロータリークラブも全部そうですが、社会奉仕と言いながら、結局は余力でやっている。自己をいかに犠牲にするかという観点が非常に弱い。 つまり、自己を犠牲にしないとリーダーになれない、という教育がなかなか出てこないわけです。これは戦後教育の問題点ですね。結局、ボランティアの問題というのは、リーダー教育と非常に深いかかわりがあります。リスクと犠牲を前提にするという考え方、すなわち、教養や知力の基本が出来上がっていないということです。 竹内:そういう犠牲心のある人が、やっぱりリーダーに祭り上げられていくのでしょうね。例えがあまりよくないですが、暴力団の世界でも、死ぬぐらいの強い覚悟があるということが説得力になるでしょうし。その意味で、ノブレスオブリージュが、日本にはあまりないのでしょうか。
山折:私は何度となくインドに行きましたが、最初にインドに行ったときにびっくりしたのは、においです。それまで視覚と聴覚で作り上げていたインドのイメージが、一挙にガタガタに崩れました。日本でインド哲学を学ぶ場合、テキストばかりを読んでいるので、その視覚を通した知識としてのインドのイメージばかりが出来上がる。そして現地を訪れて、嗅覚の世界に初めて直面したわけです。 そのインド体験が、ずっと尾を引いています。視覚を通して蓄積された教養、知識というものがいかに危ういか、脆弱なものか、思い知らされたわけです。インドが過酷な社会的環境の世界だったから、という理由もありますが、本質的にはヨーロッパだって同じだと思います。その社会が持っている歴史的なにおいというのはありますから。 ですから、視覚や聴覚によって得た知識を、嗅覚や触覚といった、もっと生命的な、生物的な感覚によって見直すということを繰り返さないと、単なる観念的な知識をもって満足する人間になってしまう。近代的な日本の知識人の持つ教養の頼りなさというのは、きっとその辺に関係していますよ。旧制高校の教養がしばしば問題視されるのも、結局、視覚や聴覚のレベルで終わった知識だったからでしょう。 竹内:かつて私は、イギリスのパブリックスクールについて調べたことがあります。最初は、現地の写真は見ているけれども、実物は見ていないという状況です。すると、どんどん美化するんですね。しかし、実際にイギリスに行って、現実に寮を見たり、写真には載っていない鞭打ちの部屋を見たりすると、印象が変わりました。 活字だけでヨーロッパを学んだ人は、非常に美化する傾向があります。丸山真男さんも、実際に欧米に行ったのは晩年ですよね。そうすると、頭でヨーロッパ像を作り上げて美化してしまうのではないですか。 山折:そうですよね。美化と完全化。 竹内:そういう意味では、戦後の大衆レベルでも、海外旅行というのは、ずいぶん日本人の海外に対する気持ちを変えました。ものすごく大きい体験知だと思います。海外に対するコンプレックスもあまりなくなりましたよね。 山折:海外にはできるだけ若いときに行ったほうがいい。「今のグローバリゼーションの時代に、どう若者を育てたらいいのでしょうか」とよく聞かれますが、まずはいちばん厳しいインドやアフリカに修学旅行で行ったらいいと思っているんですよ。 竹内:それはいい案だと思います。ただ実際には、豊かで快適なところに行っています。今の日本社会は事なかれの官僚制化していますから、先生も危険のあるところに行かせるのが嫌なのでしょう。 山折:親も事故を恐れて。 竹内:そうですね。 山折:だからやっぱり、どうしようもないところまで来ていますよね。なにか打開策はありませんか? 竹内:私の大学時代は、「官僚制化」というのが社会学のメインテーマで、マックス・ウェーバーを読み込みました。今の日本は、ウェーバーの言う典型的な官僚制化社会になっています。今こそ「官僚制化とはどういうことなのか」を考えたほうがいい。 山折:今の日本の官僚制化は、正当な発展のかたちなのでしょうか? それとも日本的なスタイルなのでしょうか? 竹内:私は日本的なものが入って、変なかたちになっていると思いますよね。 「リスクは絶対ゼロにする」というのは、ちょっとありえない発想です。大学時代に、物理学者の書いた倫理学の本を読んだのですが、その本では、「確率論的に絶対ゼロということは、交通事故でも何でもありえないのだから、何%ぐらいを超えたら大問題と設定しなさい」と書いていました。今は、皆が「確率ゼロはありえない」と思いながらも、「絶対、再発させてはならない」と言いますよね。あれは、何なのですかね。 山折:100%の安全安心などないことは、誰でもわかることですが、言うときはそう言うんですよね。だから危機的な問題を議論するときに、いつも他人事です。わが事ではないのです。かつては、わが事になればそんなことは言えない、という常識的な感覚がありました。それが本当の教養ですよ。それがないから、いつも他人事になってしまう。 竹内:なるほど。 山折:メディアがそうです。もう社説の論調なんか典型ではありませんか。 竹内:何というか、日本型ポリティカルコレクトネス(政治的公正)みたいなものが充満しています。 山折:そうそう。
竹内:凶悪事件が起きると、必ずコメントで「なんでこの犯人が犯罪行為に至ったか」を解説しますよね。そういうふうに、何でもかんでもわかろうとする態度も、リスクをゼロにする発想と似ています。 山折:そうですね。かなりの程度まで人間は理解可能だという、社会科学的な考え方です。 竹内:何でもかんでもわかろうとするのは、おそれ多いことですよ。これこそヒューブリスというか、人間の驕慢が極まっているのではないかと思いますけど。 山折:そうですね。先ほどのリスクの問題で言いますと、私は今、京都の堀川高校の学校運営委員をしています。 ちょうど今、文科省が日本全国の高校をスーパーサイエンスハイスクールに指定していて、堀川高校もそのひとつです。その一環で、堀川高校は、いろんな科学教育をやっています。その際に、国際標準という基準があって、それに近づくために目標を立てるわけです。 その国際標準と日本的な標準には、ものすごく落差があることに気付きました。たとえば、ボランティアという言葉ひとつとっても、意味が違います。国際標準では、わが身を削って、時間も削り、おカネも出し、場合によっては家族を犠牲にして、何らかの奉仕をすることがボランティアということの意味です。だから、リーダー教育、エリート教育というのは、いかに自己を犠牲にするかということが基本になって、それがボランティアリズムが基本となります。 ところがどうも日本のボランティアは、永続的にやるという考え方ではなくて、できるだけ自分を守って、自分の領域を守って、その余力でサービスをするという傾向が強い。ライオンズクラブもロータリークラブも全部そうですが、社会奉仕と言いながら、結局は余力でやっている。自己をいかに犠牲にするかという観点が非常に弱い。 つまり、自己を犠牲にしないとリーダーになれない、という教育がなかなか出てこないわけです。これは戦後教育の問題点ですね。結局、ボランティアの問題というのは、リーダー教育と非常に深いかかわりがあります。リスクと犠牲を前提にするという考え方、すなわち、教養や知力の基本が出来上がっていないということです。 竹内:そういう犠牲心のある人が、やっぱりリーダーに祭り上げられていくのでしょうね。例えがあまりよくないですが、暴力団の世界でも、死ぬぐらいの強い覚悟があるということが説得力になるでしょうし。その意味で、ノブレスオブリージュが、日本にはあまりないのでしょうか。